2021年02月13日

ピーティ・ウィートストロー ザ・デヴィルズ・サン・イン・ロウ

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ピーティ・ウィートストロー/ザ・デヴィルズ・サン・イン・ロウ
(Pヴァイン)


戦前に撮影されたブルースマン達の白黒、あるいはセピア色の写真を見るのが好きです。

ほとんどの写真は、当たり前ですが画質も粗く、顔の細かい部分が潰れてしまってぼんやりしていたり、またはあからさまに加工されているのがあったりして(ブラインド・レモン・ジェファソンのあの写真が、実は体の部分が絵だったというのとか、色々ありますネ)、確かにそれは古い時代の未発達な技術の産物だったりするんですが、そういった粗い画質やあからさまな加工が、確かにいた被写体の実像を、どこかこの世ではない異世界の存在と、見る人に感じさせる。そう思いながら戦前ブルースマン達の写真を眺めていると想像がどんどん拡がって実に飽きません。音質の悪さやノイズの多さで籠った声や、SP盤に録音する際に早めた回転数によって演奏スピードが上がり、ピッチが不自然に上がった音によって醸される違和にすらも、同様に”この世ならざるどこか”を感じる事があります。

十代の頃は、それこそ「知らない世界を知ろう」とばかりに、ロバート・ジョンソンの2枚組CD『コンプリート・レコーディングス』のブックレットを皮切りに、ブルースのガイドブックなんかを買っていくうちに、数々の印象的な白黒のポートレイトを目に焼き付けましたが、その中に一人、何かのガイドブックに載っていた、ダブルのスーツをパリッと着こなし、ブルースの象徴ともいえる金属製のリゾネーターギターをかまえ、何とも鋭い目付きとふてぶてしい笑みを浮かべた不穏な表情で写っている男の写真にアタシの目は釘付けになり「誰だこの人は?どんなブルースを歌うんだ?」と、ずっと思っておりました。

その男こそがピーティ・ウィートストロー。セントルイスを拠点に活躍したシティ・ブルースの人であり、ロバート・ジョンソンには作曲法や歌い方、そして歌詞でもって多大な影響を与えた、と。

そして、彼は自分を売り出すために『悪魔の養子』とか『地獄の保安官』と自ら名乗ったんだとか。そしてこの写真で見る彼のルックスが、アレですよ、ほれ、映画『クロスロード』に出てくる”悪魔”の風貌と何だかとてもよく似てると思ったんですね。

おぉ!つうことはこの人こそ正にロバート・ジョンソンが「クロスロードで悪魔と取引した」とかいう伝説の、なんつうか元ネタっぽい話の人なんではないか!と、頭の悪い高校生だったアタシは早速興奮し、ピーティ・ウィートストロー聴くべとCDを探し回ったんですが、1990年代の始まり頃ってのは戦前ブルースなんてものは田舎ではなかなか入手出来ず、2曲入ってるという情報を頼りに入手したのがオムニバス盤の『RCAブルースの古典』。




写真だけを見て想像していたのは、物凄いアクセントトを付けてバリバリにスライドとか弾きまくっているような感じでしたが、この人のメインの楽器はピアノ。そしてシティ・ブルースと言うだけあって、楽曲もデルタブルースとかのそれに比べると割と淡々とした、落ち着いたものでありました。

が、その重く暗いものを言葉や声の内に含ませながら、そこらへんに乱暴に吐き捨てるようなべらんめぇなヴォーカルの魅力(魔力と言うべきか)には想像以上のインパクトをズシンと感じてしまいました。

ピーティ・ウィートストローという人は、やはり戦前のブルースの人らしくその人生は謎に包まれております。生年は1902年とハッキリしておりますが、生まれはテネシー州という説と南部アーカンソーという説があり、また、1941年に39歳という年齢であっけなくこの世を去っており、例によって残された写真もリゾネーターギターを持った1枚しかないようであります(もう1枚、昔のレコードでココモ・アーノルドとのカップリング盤で使われているのがあったと思うのですが、それがピーティー・ウィートストローの写真かどうかちょっと分かりません。知ってる方いたら教えてください)。

色々と本を読んでも、ネットで検索しても、その実彼のパーソナリティなこと、特に「アイツはこういうヤツで、こんな事をやっていた」みたいな情報が極端に少ないんですね。けれども1930年から1941年までに何と161枚のレコードを出していたという事は、やはりちょっとしたスター並みの人気で、それこそ色んな逸話がガサゴソ出てきてもおかしくはないのですが、ほとんどありません。「自分の誕生日を祝う飲み会のその日、酒が足りなくなって友人らと車に乗って別の酒場目指して走っていたところ、停止していた貨物車に激突して即死」という死亡時のエピソードだけが不気味なリアリティで持って突出しているだけであります。

そのヴィジュアルや音楽的なインパクトと裏腹な、実在した人物としての存在の曖昧さが、これまた戦前ブルースの深い闇のようなものを感じさせるからたまんないんですね。実に魅力の尽きない人です。



ザ・デヴィルズ・サン・イン・ロウ

【収録曲】
1.Don't Feel Welcome Blues
2.Tennessee Peaches Blues
3.Ain't It A Pity And A Shame
4.Long Lonesome Drive
5.The Last Dime
6.Numbers Blues
7.Doin' The Best I Can
8.The Rising Sun Blues
9.Good Whiskey Blues
10.Slave Man Blues
11.King Spider Blues
12.King Of Spades
13.Johnnie Blues
14.No Good Woman (Fighting Blues)
15.When I Get My Bonus (Things Will Be Coming My Way)
16.Meat Cutter Blues
17.Remember And Forget Blues
18.Little House(I'm Gonna Chase These Peppers)
19.Peetie Wheatstraw Stomp
20.Working On The Project
21.Shack Bully Stomp
22.What More Can A Man Do?
23.Gangster's Blues
24.Bring Me Flowers While I'm Living


そんな謎めいた大物、ピーティー・ウィートストローのアルバムは、Documentから全7枚という驚異のボリュームで完全音源化されておりますが、とりあえずどんな音楽をする人だったかを知るにはPヴァインから出ている国内盤CDがオススメであります(これでも全24曲という凄いボリュームです)。

収録曲はほぼほぼキャリアの初期から後期に向かって順を追って聴けます。前半はピアノ弾き語りにギターのみを付けた、1920年代から30年代前半まで流行したシティ・ピアノ・ブルースのオーソドックスな形式で、べらんめぇながら奥底にじわっと滲む情緒や情念をヒリヒリと染み渡らせる、この人ならではの個性が全開。

伴奏もロニー・ジョンソンやビッグ・ビル・ブルーンジィなどの超一流どころを従えていたピーティー、そのギタリスト達のツボを押さえた見事なプレイも楽しめます。個人的にはヴォーカルと呼応するもう一人のヴォーカルのように絶妙な間と合いの手を入れるケイシー・ビル・ウォルデンのスライド(GH)にゾクゾクきました。

中盤からは30年代半ばから本格的に流行したブギ・ウギ・ピアノやストンプを取り入れ、よりダイナミックなピアノに拍車がかかり、更に後半亡くなる直前のセッションではグッと洗練されたジャズ的フィーリングが、これがもうたまんなくカッコイイんですね。ロニー・ジョンソンの軽妙なギターに乗せてゆったり歌う『What More Can A Man Do』、コルネットとドラムスを従えた『Gangster's Blues』で「おお!」となり、トドメはテナーサックス参加の『Bring Me Flowers While I'm Living』。南部生まれのゴツゴツしたブルース・フィーリングが洗練されたテナーの寄り添いによって時空に溶けて行くかのような不思議な感覚をも覚えさせてくれるこの感じ、CDが終わった後もしばらくほぅ〜っとなってしまいます。


ピーティ・ウィートストローは、その裏声混じりの「フ〜ウェ〜(ル)」という、その後ほとんどのシンガーが真似をした歌い出しのフレーズといい、僅か10年程の活動期間の間にスタイルを結構変えているのに、ワン・アンド・オンリーのヴォーカルの持ち味によって、表現の1本太い筋みたいなものが終生ブレなかった人でもあります。こういう人がいるから戦前ブルースはやめられません。


















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2021年01月31日

ライトニン・ホプキンス LIGHTNIN' HOPKINS(1959)


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ライトニン・ホプキンス/LIGHTNI' HOPKINSN(1959)
(Sumithsonian Folkways/ライス・レコード)


”ブルースの権化””そこに立ってるだけでブルース”と言われ、今なおブルースを好きになる人にとっては最初に「うぉぉ、これはブルースだ!ブルース以外の何物でもない!くぅぅ!!」という歓喜の悲鳴を挙げさせるライトニン・ホプキンス。

まずはサングラスにくわえ煙草、その顔から所作から立ち姿まで、たとえばブルースを全く知らない人にとっても「思い描くブルースマン像とは?」という問いの答えがズバリあるようなその出で立ちとムンムンに放ちまくっているオーラ。そもそもが昔のブルースの人達ってのは、大体見た目とやっている音楽がリンクする人がとても多いのですが、そんな濃い連中がわらわらいる中でも、ライトニンの醸す雰囲気というのは、こりゃもう頭ひとつ抜けてブルースです。まずもってカタギにゃ見えません。

そんなライトニン・ホプキンス、家族どころか身内のほとんどが歌ったり楽器を弾いたりする環境に生まれ、10歳になった1922年のある日地元テキサスの大物ブラインド・レモン・ジェファソンと出会い、付き人として一緒に旅をしながら直接ギターを教わったり、やがて同じくテキサスを代表する大物であり、血縁としては従兄弟であったテキサス・アレクサンダーの伴奏をしながら、自分なりのブルースを身に着けて成長します。









テキサスのブルース界隈において、ブラインド・レモンとテキサス・アレクサンザーの両方と一緒に演奏するなんてのは、ハッキリ言って超エリートで、10代の頃から注目されて20代前半には地元ですっかり話題になってレコード会社が契約しに来てもおかしくないんですが、20代のライトニンは逮捕とか色々あって、彼が初めてのレコーディングを経験したのは1946年、30歳になってようやくの頃だったんです。

1946年といえば太平洋戦争が終わった翌年で、世の中も大分変っておりましたが、何よりもブルースという音楽の形式が、戦前のハードなものも牧歌的なものも何でもアリみたいな感じからずっとハッキリと定まってきて、アタシ達が今聴いてる感じの『ブルース』という音楽のあの感じのスタイルがすっかり出来上がっておりました。

ライトニン・ホプキンスという人は、さっきも言ったように「ブルース」というライフスタイルの権化でもあるんですが、戦後になって固まってきた「ブルース」という音楽のある種典型的なスタイルを演奏する人でもあるんです。音源を聴いているとどの曲もほとんど同じ形式のスローブルースか、アップテンポのブギ。たまに思い出したように戦前のカントリースタイルの曲をやったりもしますが、ライトニンの音楽の軸は一切ブレません。このブレのなさがまた、彼のカリスマ的な人気の根源でもあると思います。

ライトニンも、レモンやアレキサンダーと一緒にやっていた頃は、まだまだ南部では人気のあったカントリー調のスタイルでやっていたでしょう。もしもその頃にレコードデビューしていたら、もしかしたらスタイルを確立する前に全盛期を迎えてしまってその後が続いてなかったんじゃないかと思う部分が少しはありますので、やっぱりレコーディングを行う前の空白期間が戦前から戦後を跨ぐ事によって、ライトニンはブルースという音楽の進化を巧みに自己の表現の中に取り込み、十分な時間をかけて成熟させていった事がライトニン・ホプキンスという強烈な個性に繋がったんでしょう。えぇ。

さて、1946年にアラジンとゴールドスターという小さなレーベルでシングルをレコーディングするようになってから、ライトニンは50年代の中頃まで無節操に色んなレーベルから、当時”レース・レコード”と呼ばれるシングルを次々とリリースし、好調な活動を続けます。

ところが1950年代中頃からは、ブルースに代わってリズム・アンド・ブルースやロックンロールといった、洗練とキャッチーさと、何よりバックにフルバンドを付けられる資金力が必要とされる音楽が、若者達の間でトレンドとして一世を風靡するようになりました。ライトニンのスタイルというのは、ギター弾き語りプラスアルファ程度の編成のものが多かったし、何より築き上げたスタイルというものが「ブルース以外の何物でもない」ぐらいに強固に出来上がってしまっていたので、徐々にレコーディングが減り(リスナーに飽きられたというよりは、レコード会社の方が南部の泥臭いブルースにセールス面での危惧を感じてやらなくなっていったという方が正しいような気がします)、しばらくはミュージシャンとしての活動はほとんど止めて、本業(!?)の博打の方に専念していたといいます。





ライトニン・ホプキンス

【収録曲】
1.ペニテンシャリー・ブルース
2.バッド・ラック・アンド・トラブル
3.カム・ゴー・ホーム・ウィズ・ミー
4.トラブル・ステイ・ウェイ・フロム・マイ・ドア
5.僕の墓をきれいにして
6.ゴーイン・バック・トゥ・フロリダ
7.ブラインド・レモンの思い出
8.ファン・イット
9.テル・ミー・ベイビー
10.シーズ・マイン

そんなライトニンに転機が訪れたのが1959年のある日の事、ニューヨークやサンフランシスコといった都市では”アメリカの伝統的な音楽を見直そう”という動きが白人の若者の間で起こっており、その一環として戦前戦後に活躍していた伝説のブルースマン探しというのが流行りだしたんです。

熱心な若者達は古いレコードを頼りに、たとえば「サン・ハウスはミシシッピに居たからミシシッピに行けばまだいるかも」ぐらいの物凄くアバウトな手がかりから現地で細かい聞き込み調査を行って、何とたくさんのブルースマン達を”再発見”しておったんですが、ライトニンもサミュエル・チャーターズという青年による執念の調査で、何と質屋でギターを発見され(!)更に周辺で聞き込みをしていたところ、車に乗ったライトニンが現れて「おゥ、アンタ俺を探してるんだって?何の用だ」と、声をかけてきたらしいんですね。

で、カネになりそうな話だと察するや否や、何事もなかったように音楽復活。手始めにアメリカ各地に残る民俗音楽を収集しているちょいと学術的なレーベルであるスミソニアン・フォークウェイズでアルバム1枚分のレコーディングを行い、その後はとにかく大手だろうがマイナーだろうがカネになるなら看板はいらねぇとばかりに色んなレーベルで録音し、今日に残る膨大な量のアルバムをリリースしております。

今日ご紹介する『ライトニン・ホプキンス』というアルバムは、その”手始め”に行われた1959年スミソニアンフォークウェイズでの録音であります。

ちょいと詳しい方なら録音年を聴いて「おぉ、名盤モージョ・ハンドと近い録音じゃないか!」と気付くと思いますが、そうなんです。『モージョ・ハンド』もこのアルバムも、再発見直後の勢いとやる気に満ちたライトニンの好演を収録したもの。ところがギターにピックアップとか、バックにドラムとかを付けて、とことんダーティなインパクトが凄まじいモージョ・ハンドに比べ、コチラは生ギターによる完全弾き語り。空気感もジトッとしたヘヴィなものではなく、40年代のアラディンやゴールドスター音源を思わせる、カラッと乾いたものに仕上がっております。

とはいえのっけから刑務所生活を歌った重たいスローブルース、続く2曲目も人生の不運をやるせなく歌う、まるで彼のそれまでの人生の独白のような曲が続き、音の質感はカラッとしておりますが、全体のイメージはライトニンの演奏の中でもかなり辛口な部類に入ります。









(アナログ盤)





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2021年01月09日

フレッチャー・ヘンダーソン ハーレム・イン・ザ・サーティース

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フレッチャー・ヘンダーソン/ハーレム・イン・ザ・サーティース
(OLYMPIC/アブソード・ミュージック)


ちょいと思うところあって、年末年始は「グッド・オールド・ジャズを聴こう!」と気合いを入れて、色々と聴いておりました。

オールド・ジャズって何だろう?と思う方もいらっしゃるのでちょいと解説をしましょう。ってか、解説するまでもなく、大体アタシの場合は戦前のスウィング・ジャズと、それよりも古いジャズをオールド・ジャズと呼んでおります。

ジャズの場合はハッキリとビ・バップを挟んでそれ以前それ以降で音の傾向みたいなのも違いますし、編成も違うのでとてもわかりやすいんですよ。モダンなジャズの場合は「よし、さぁ、今日はジャズを聴くぞ!」という時に聴いて己を高めるもの、オールドなジャズの場合は何となく幸せな気分になりたい時に聴いて己を幸せな気分にするためのもの、と何となく認識してはおります。

これはもちろん大雑把な話で、もちろんモダンなジャズの中でもほんわかいい感じにリラックスさせてくれるものもありますし、オールド・ジャズも最初は「あぁ〜良いですな〜」とか言いながら聴いているうちに、ビッグバンドの圧倒的なスウィング感の源になっているミュージシャン達の技量の奥深さについつい真剣に聴き入ってしまうことなんて毎度なんですが、そもそもが戦前のスウィングジャズや初期のデキシーランドとかは、その場にいるお客さんを楽しませてなんぼの音楽。やっぱりその核心みたいなものは、聴いてて心がぷわ〜っと華やいだり何か上等な気分に浸れたり、そういうところにあると思うんですね、えぇ。

はい、そんなこんなで殺伐としたニュースばかりの今の時代、皆さんに少しでも幸せな気分になって欲しいと思いますので、今日は極上のグッド・オールド・ジャズをご紹介いたしましょう。

1920年代後半から30年代にかけて、ジャズの最新の流行というのはビッグ・バンドが演奏するゴージャスなスウィング・ジャズでありました。ジャズという音楽は、まずアメリカの南の入り口である軍港の街ニューオーリンズで1900年頃に誕生しましたが、やがて軍港が廃止になってミュージシャン達は新天地を求めて北部の大都市へと移り住みます。

最初に彼らを受け入れた街がシカゴ。ここでジャズ王と言われたキング・オリヴァー、その後継者と言われ人気上昇中だったルイ・アームストロングらがジャズという音楽をあっという間に全国に拡げ、彼らはその勢いを得て、アメリカの経済と文化の中心地である大都会ニューヨークへと進出します。

1920年代のニューヨークにはハーレムという地区があって、ここがアメリカ各地とカリブ海から集まってきた黒人達の一大居住区として爆発的な人口の増加を迎えておりました。同時にここでは都市での自由な生活を手に居てた人々によって作られた、ハーレム・ルネッサンスと呼ばれる独自の黒人文化が花開いてもおりました。

さて、音楽の分野でハーレムといえば、何と言っても有名なのはビッグ・バンド、スウィングの王でありますデューク・エリントンですが、本日ご紹介するのはエリントンよりも少し早くにニューヨークでジャズを進化させ、30年代の黄金のスウィング・エイジの基礎を築いたフレッチャー・ヘンダーソンという人であります。

ヘンダーソンは1897年にアメリカ南部のジョージア州に生まれました。

父親は大学の学長まで務めた教育者で、彼自身も幼い頃から非常に恵まれた環境で一流の教育を受け、ニューヨークのコロンビア大学に進学しております。

後にミュージシャンになる人だから音楽学校に行ったのかと思いきや、少年時代の彼には化学者になるという夢があり、コロンビア大学でも専攻は化学でこの頃は音楽の”お”の字もありませんでした。

やがて大学も優秀な成績で無事卒業、名門大学卒業という輝かしい経歴でもって意気揚々と就職活動に励むのでありますが、当時はまだ都会のニューヨークとはいえ、人種差別が残る時代。「黒人である」という理由で彼は希望する化学の研究者にはなれず、やむなくブラック・スワン・レコードという、初めて黒人の手によって設立されたレコード会社の社員として就職し、これが生涯続く音楽との縁の始まりになるのです。

実はヘンダーソンの母親は、ピアニストでもありました(コンサートを行って収入を得ていたのか、教室で生徒を教えるような先生だったのかは不明)。幼い頃から彼は”習い事”として、母親からクラシック・ピアノの手ほどきも受けていたんですね。

そんなこんなでブラック・スワンのオーナーのハリー・ペースは、彼にレーベルの音楽監督兼レーベルのハウス・ピアニストという職を与えました。

ここで重要なのは、ヘンダーソンは黒人、しかもジョージアというアメリカの南部で生まれ育ちながら「それまで全くジャズやブルースに親しんでなかった」という事なんです。一説によりますと、クラシック・ピアニストの母親から「ジャズやブルースなんぞは堕落した下等な音楽だから絶対に聴いてはいけない」と厳しくしつけられていたとか。

ともかく音楽理論には精通していて、ブルースシンガーのバックで端正な伴奏が出来るので、ヘンダーソンはあっという間に売れっ子となり、ブルースの皇后ベッシー・スミスなど、色んなシンガーのバックでピアノを弾きます。

音楽家になるなんて思ってもいなかったヘンダーソンは、根が真面目でしっかりした人なので、与えられた仕事をキッチリとこなすだけではなく「ジャズがもっとカッコイイものになるにはどうしたらいいんだろう?」という事を真剣に考え、ピアノ演奏だけではなく、アレンジの研究に熱を入れるようになります。

そうこうしているうちにシカゴからニューヨークに出て来たばかりのルイ・アームストロング、若きテナー・サックス奏者で後にジャズにおけるサックス奏法の創始者と呼ばれることになるコールマン・ホーキンスなど、錚々たるスター・プレイヤーが彼の楽団に参加するようになり、そんな優れたソロイストを得たヘンダーソンは、彼らにそれまでのオールド・ジャズにはなかった独創的なソロを吹かせる事で”スウィング”というジャズの新時代を切り開いたのであります。

それまでのジャズといえば、西洋音楽に”ぶん、ちゃっ。ぶん、ちゃっ”というシンコペーションを付けてコード進行にセブンスという”濁る音”を混ぜたラグタイムが基本でした。

もっと分かりやすく言えば、運動会のかけっこの時に流れるBGMみたいなもの、と言えば良いでしょうか。とにかく「ぶん、ちゃっ、ぶん、ちゃっ」というリズムに乗って、仲良くテーマが合奏され、その後コルネットやクラリネットやピアノがソロを取り大団円。という流れ。この時代のジャズはひたすらホールのお客さんを踊らせるためのものだったので、それで全然盛り上がったんです。

ヘンダーソンはこの、ラグタイムを基調とした曲調の中で、様々なハーモニーを加え、楽曲によりムーディーな奥ゆかしさのようなものを生み出す事に成功しております。

メロディ面については、陽気な曲調にはあんまり合わないと思われていたマイナースケールを効果的に用いて、これまたただ景気よく盛り上げてなんぼのジャズに、リアルな”夜の空気”を吹き込んで、イメージを決定付けもしました。




ハーレム・イン・ザ・サーティーズ



【パーソネル】
フレッチャー・ヘンダーソン(p)
ボビー・スターク(tp)
レックス・スチュワート(tp,vo@I)
ラッセル・スミス(tp)
ジミー・ハリスン(tb)
クロード・ジョーンズ(tb)
ベニー・モートン(tb)
ベニー・カーター(as,cl)
ハーヴェイ・ブーン(as)
エドガー・サンプソン(cd,as,vln)
コールマン・ホーキンス(ts)
クラレンス・ホリディ(g)
ジョン・カービィ(b)
ウォルター・ジョンソン(ds)

【収録曲】
1,ユー・ラスカル・ユー
2.ブルー・リズム
3.シュガーフット・ストンプ
4.ロウ・ダウン・オン・ザ・バイユー
5.トゥウェルブ・ストリート・ラグ
6.マイレンバーグ・ジョイス
7.アフター・ユーヴ・ゴーン
8.スターダスト
9.タイガーラグ
10.サムバディ・ストール・マイ・ギャル

(録音:1931年)


知的で洗練されたヘンダーソンのビッグ・バンド・サウンドは正に、当時黒人が都会で自ら勝ち取った芸術的価値観を象徴するような輝きに溢れておりました。それぞれに事情と野望を抱えた凄腕のミュージシャン達が一旗上げるために彼のバンドに集まり、その斬新なアレンジの中で次々にその才能を開花させたそれは、正に奇跡を目の当たりにするような感動とイコールであります。

アルバム『ハーレム・イン・ザ・サーティース』は、1930年代初頭最も勢いのあった時代のフレッチャー・ヘンダーソン楽団の音源から10曲をチョイスしたコンピレーション・アルバムです。すぐに売れっ子となって独立していったルイ・アームストロングこそもうおりませんが、コールマン・ホーキンスの野太い音での華麗なアルペジオ奏法を中心に、ソロを取るミュージシャン達の演奏は素晴らしく、ハーレムの黒人達そのものの歓喜や悲哀すら、リアルに感じさせてくれます。

残念ながら学者肌で穏やかな性格だった彼自身は、バンドに集まるクセの強いミュージシャン達を束ねる剛腕はなく、自身のオーケストラも1939年には完全に解散。もっと長く活躍し、音源もたくさん出していたならば、デューク・エリントンやカウント・ベイシーの先達としてもっともっと認知され、その後のジャズも少し違うものになっていたかも知れません。

ヘンダーソンはその後、ベニー・グッドマン楽団のアレンジャーとして、自身が嚆矢を放ったスウィング・ジャズの最盛期のサウンド作りにも大きく関わっております。


最後にひとつ余談ですが、この時期のヘンダーソン楽団に参加しているギタリスト、クラレンス・ホリディはビリー・ホリディの父親です。ベッシー・スミスとルイ・アームストロングに憧れ、小さい頃から彼らのレコードを聴いていたビリーの父親と憧れのシンガー達の共通するバンドリーダーが同じフレッチャー・ヘンダーソンであった事、そして様々なバンドやセッションを渡り歩いていたクラレンスが生涯で残した唯一の録音物がフレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍していた時期のもののみであるという事に、何というか深淵な巡り合わせのドラマを感じずにはおれません。




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(2020年12月、阿部薫の本が文遊社より発売されます。私も少しですが執筆に参加しております。)
posted by サウンズパル at 22:53| Comment(0) | ジャズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする