2017年12月26日

ヒッコリーハウスのユタ・ヒップ Vol.1

1.jpg


ヒッコリーハウスのユタ・ヒップ Vol.1

(BLUENOTE/EMIミュージック)

冬になると聴きたくなるピアノといえば、そう、この人を忘れてはいけません。

モダン・ジャズ華やかかりし1950年代半ばにドイツからやってきてブルーノートに何枚かのアルバムをそっと残し、そして失意のうちにジャズの世界から静かに姿を消した哀しみの女流ピアニスト、ユタ・ヒップ。

確かな実力を持ちつつ、決してテクニックを派手に見せつけない楚々とした魅力のあるフレージング、そしてノリのいい軽快なナンバーを弾いてもどこか憂いを帯びた独特の音色。

ユタ・ヒップが作品を残したBLUENOTEの1500番台というシリーズは、それこそ全部のアーティストの全部の作品が”かっこいいジャズのお手本”と言っていいぐらいにファンキーでオシャレな名盤がズラッと揃っておるのですが、その中でも「ユタ・ヒップ」という文字があれば、何かこう「イェ〜イ♪」ではなく「キュ〜ン」と胸を締め付けられます。

アタシなんかは本日ご紹介する「ヒッコリー・ハウスのユタ・ヒップ」のジャケットを見て、このジャケに写ってる清楚な感じの白人女性をてっきりモデルさんだろうと思って「やっぱりブルーノートのジャケットは粋だよねぇ」なんてはしゃいでおったのですが、中身を聴いて自己紹介をするしとやかな声に続いて出てくる、さり気ない重みと哀愁のあるピアノに、最初からすっかり恋に落ちたクチです。

ユタとの出会いはバド・パウエルの『クレオパトラの夢』を聴いて、あの暗く重たい哀愁が、美しい旋律に引きずられながら転がってゆくの狂おしさが、あぁなんつうか凄くカッコイイなぁ、こんな感じのピアノもっとないかなぁと思っていた丁度その時だったんですね。

だからよく「ユタ・ヒップは革新的なスタイルを作った訳でもなくて全体的に地味だが好きな人は好き」みたいな紹介のされ方をした文章を見るんですが、アタシに言わせればてやんでぇなんです。

新しいスタイルを作ることがジャズじゃないし、影響を与えた人間の数で、そのアーティストの音楽的な価値が決まる訳ではありません。確かにユタはほんの少ししかアメリカのジャズ・シーンにいなかったし、そのスタイルも憧れだったバド・パウエルの影響からほとんど出ることはない、いわゆるオーソドックスなバップ・ピアノというやつではありますが、いやいや、音楽を聴きましょうよ。

この人みたいに内に秘めたものをフレーズに託して、情感豊かに鍵盤を転がせる人はちょっと他に見当たらないし、聴いた後にじわっと広がる儚い余韻の味わいというのがやはりどう聴いてもワン・アンド・オンリーの魅力があるんです。もちろんたった2年間のアメリカでの活動の中で残した数枚のアルバムは、どれも良質と言っていい味わいの深い逸品揃いなのです。

1925年にドイツのライプチヒで生まれたユタ・ヒップは、少女時代にジャズの魅力に目覚め、仲間達とバンドを組んで演奏を行ってましたが、時のナチス政権によってジャズは退廃芸術として弾圧の対象となっておりました。

けど、仲間達とこっそり集まっては外に漏れないようにジャズを聴き続けていたんですね。

やがて戦争が終わり、彼女の未来には希望の光が差し込みますが、この時ユタは決して許されない悲しい恋に落ち、私生児を身ごもって出産します(ユタが父親の事は一切口にしなかったので詳細は不明ですが、恐らくは進駐軍の黒人兵士との間の子ではないかと言われております)。

息子を生まれてすぐに養子に出し、全てをふっきるかのようにジャズにますます没入してゆく彼女は、やがて1950年代になると自分のバンドを率いるようになって、ドイツ全土でそこそこ名の知れた存在になり、その評判を聞きつけたアメリカのジャズ評論家レナード・フェザーがドイツに渡り何度も説得した上でアメリカに呼び寄せるという幸運に恵まれました。

が、実はユタはとてもあがり症で自分に自信が持てない性格のため、レナード・フェザーにほとんど強引に口説き落とされはしたものの

「自身がないから・・・多分少しだけ向こうに居てすぐに帰ると思う。それに私・・・私みたいな人間はきっと音楽だけで生活して行くことは出来ないと思うの。アメリカは都会だし、きっと私以上のピアニストなんていっぱい居るに決まってるわ・・・」

と、かなり後ろ向きだったようです。

不安がるユタに、何とかジャズ・ミュージシャンとしての本格的な活動を続けて欲しいとレナードは手を尽くしました。

まず、ニューヨークの多くのクラブハウスが集まる”西52丁目”地区にある、ライヴも出来るステーキの店”ヒッコリー・ハウス”のレギュラー出演者として彼女を出すように交渉し、これを承諾させ、更にブルーノート・レコードのオーナー、アルフレッド・ライオンに

「いやぁ、ドイツから凄いピアニストを連れて来たんだ。女の子なんだけどこれがバドみたいで凄く上手いんだ。アル、同じドイツ人だから贔屓してくれって言ってるんじゃない。アンタが音に公平なのはオレだってよく分かってる。まずは一度聴いてみてくれないか」

と、彼女を紹介。

レナードの言うように、音に関しては公平で厳しく、何よりも同じドイツ人だからと仕事の上でえこひいきするというような馴れ合いは、ドイツ人は大嫌いです。しかしそんなライオンをして「彼女のピアノいいね、ウチでレコード作るよ」と言わしめたユタ・ヒップ。



【パーソネル】
ユタ・ヒップ(p)
ピーター・インド(b)
エド・シグペン(ds)

【収録曲】
1.イントロダクション・バイ・レナード・フェザー
2.テイク・ミー・イン・ユア・アームズ
3.ディア・オールド・ストックホルム
4.ビリーズ・バウンス
5.四月の思い出
6.レディ・バード
7.マッド・アバウト・ザ・ボーイ
8.エイント・ミスビヘヴン
9.ジーズ・フーリッシュ・シングス
10.ジーパーズ・クリーパーズ
11.ザ・ムーン・ワズ・イエロー

1956年4月5日録音


で、この『ヒッコリー・ハウスのユタ・ヒップ』は、彼女がニューヨークへ来た最初の仕事をそのまま録音したアルバムです。

多分「あの性格ならスタジオでは緊張して本領を発揮できないだろう」と読んだライオンの彗眼でしょうね。その読み通り、このアルバムでは気負いも飾りもない、彼女の素の演奏が、しかも実際のステージでの演奏を順番すら変えずそのまま収録して『Vol.1』『Vol.2』という素晴らしいライヴ盤に仕上がりました。

今日ご紹介するのは、まずはVol.1の方です。

編成はユタのピアノに、ピーター・インドのベース、エド・シグペンのドラムス。

インドは当時最も革新的な集団として知られたレニー・トリスターノのバンドでリズムを支える知性派で、エド・シグペンの方は”ザ・トリオ”と呼ばれるオスカー・ピーターソン・トリオのレギュラー・メンバーを務める実力派中の実力派、特に2人共”ピアニストがリーダーの場合の引き立て方”というのを知り尽くしている、ユタにとっては最高の人選ですね。

実際、ステージを通してインドのキリッと締まった的確なウォーキングと、シグペンの繊細でメロディアスのブラッシュワークが、本当に素晴らしいサポートをしています。

そしてこのアルバム、全編に渡ってある種独特の重みを感じさせながらも見事にスイングして、美しいメロディもしっかりと過不足なく聴かせるユタのピアノの素晴らしさは余すところなく発揮されております。

聴きどころは前半のマイナー系疾走ナンバーの狂おしさが炸裂する『テイク・ミー・イン・ユア・アームズ』
と、しっとり落ち着いた哀しみをとことん聴かせる『ディア・オールド・ストックホルム』でしょう。

もちろん彼女にとっては”大好きなジャズ”を目一杯演奏してるんですが、この2曲には何というかそれだけでは終わらない凄みがみなぎっています。もう一度言いますが決して派手に弾きまくるタイプではないだけに、そしてアドリブも凄く丁寧に丁寧に弾いて、決して勢いに任せて熱くなるタイプではないだけに、秘めているものの重さ、あやうさみたいなものがキリキリと迫ってくるのです。はぁカッコイイ・・・。




『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』

サウンズパル店主高良俊礼の個人ブログ
http://ameblo.jp/soundspal/
posted by サウンズパル at 19:28| Comment(0) | ジャズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする