2018年01月19日

ビリー・ハーパー ブラック・セイント

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ビリー・ハーパー/ブラック・セイント
(Black Saint/SOLID)

アタシ達が”ジャズ”といえば、まずパッと思い付くのがモダン・ジャズ全盛期、1950年代のサウンドであり、ジャケットを見ただけで心がワクワクする名盤群でありましょう。

確かにジャズという音楽の人気がピークを迎え、その後人気は徐々に低迷し、70年代辺りになるとミュージシャン達もほとんど仕事に困って、よほどの人気者でない限り世界中のあちこちをツアーで回って、その間に細々と作品を作るという試練の状態が日常化したと言われております。

が、いつの時代も人気と中身の良し悪しがイコールな訳じゃない。すごく有名という訳ではないけれど、素晴らしく個性的な演奏をするミュージシャンは次々世に出ておりましたし、それに値する作品だって結構出てたんですよ。

特に面白いのは70年代。

この時代というのは、エレクトリックなサウンドを展開したマイルス・デイヴィスの影響下から派生していったフュージョン。フリー・ジャズに傾倒しながら、ジャズという音楽をよりスピリチュアルなものとして捉えたジョン・コルトレーンの影響を受けた先鋭的ジャズ、または民族音楽のようなテイストを取り入れた多国籍/無国籍なジャズ。はたまた流行のソウルやファンクでジャズをやってしまおうとハッスルしていたソウル・ジャズ/ジャズ・ファンク界隈の人達等、それぞれが試行錯誤の末の、独自路線な”ジャズの進化型”を聴かせてくれる作品というのが、メジャーなところからちょっとマイナーなところまで、掘れば結構ザクザク出てきたりします。

アタシにとっては特に

「うはっ!70年代ってコルトレーンに影響受けた人がいっぱいいて面白い!!」

でしたねぇ、理屈抜きに。

しかも、それぞれ「コルトレーンの影響受けてまっす!」という、パッと聴けばアタシみたいな少々鈍い人間でもアッと分かるスタイルなのに、それぞれが”まんま”の物真似じゃなく、晩年のコルトレーンが表現していたもの、または表現したかったものを一生懸命考えて、それに独自の味を加えて出したサウンドが、何というかとても硬派で親しみやすいものに思えました。

そんな中から「おっ、この人はいいなぁ」と思ったのが、本日ご紹介するビリー・ハーパーであります。

最初に90年代に出された『ソマリア』というアルバムを聴いて、そのヘヴィなアフリカン・テイストのサウンドに乗って、骨太なトーンでブリブリ吹いてるのを聴いて、カッコイイなと思っていたら、いつの間にか初期70年代のアルバムを買ってハマり、そのままズルズルと今も聴いている人です。

スタイルや音色、趣向する音楽性から、間違いなくコルトレーンに強い影響を受けた人でありますが、彼に影響を受けた黒人テナー奏者がことごとく精神的な深みのようなものを追究していったり、もっともっと過激な方向性を見出そうとしていた中で、この人はコルトレーンの音楽から重くのしかかるような精神性(のようなもの)を一旦取っ払い、トップギアに入って超高速で畳み掛けるように吹きまくる”シーツ・オブ・サウンド”の技法も使わず、ひたすら硬質な野太い音で、その表現の核にある部分のみをシンプルに抽出したような、実にサクッと分かり易い男らしさなんです。


【パーソネル】
ビリー・ハーパー(ts)
ヴァージル・ジョーンズ(tp)
ジョー・ボナー(p)
デヴィッド・フリーセン (b)
マルコム・ピンソン(ds)

【収録曲】
1.ダンス、エターナル・スピリット、ダンス!
2.コール・オブ・ザ・ワイルド・アンド・ピースフル・ハート
3.クロケット・バレー

(録音:1975年7月21・22日)


そんなハーパーの”良いところ”が見事に刻まれているのが、1970年代のデビューから数作。

この『ブラック・セイント』は、1975年にイタリアのインディーレーベル「Black Saint」からリリースされた(そして言うまでもなくこのアルバムタイトルが、そのまんまレーベル名になった)、ハーパー2枚目のリーダー作。

音楽の内容は、60年代中ごろのコルトレーンが、マッコイ、ギャリソン、エルヴィンとやっていたような「モード・ジャズ+気持ちフリー」な、重量級ジャズであります。

全曲、どれもミドル・テンポのやや似た感じの長めの演奏なんですね。特にキャッチーな”キメ”のフレーズが入ってる訳でもなく、アレンジに趣向を凝らした訳でもなく、アルバム全体に壮大なコンセプトがある訳でもない。

なんて言うと誤解を招きそうですが、そんな中で、ハーパーのテナー・サックスはひたすら硬派に吠え、有名とは言えないサイドマン達も、余計なことをしない、ビシッと気合いの入った演奏で黙々応えてる。そんな訳で「四の五の言わないで演奏を聴きやがれ!」なアルバムなんですよ。

サイドマン、特にリズム隊の力量はハッキリ言って平凡です。でも、その「淡々とアツい真面目な演奏ぶり」が、ハーパーの男気溢れるテナーの良さを引き立てているので、そこは問題じゃありません。聴く方も小難しいことを考えず、この”ジャズのアツさだけが入った演奏”に、グッと拳を握りながら没入すれば良い。そうすることによって「お、このフレーズいい!」「あー、今のブロウたまらん!」と、次々と鑑賞のツボが見付かる、不思議と言えば不思議なアルバム。

でも、この無駄のないカッコ良さ、麺とスープだけで勝負している老舗ラーメン屋のとんこつラーメンのような味わいの深さと確かな後味、これはクセになります。

「名盤」だけが決して愛聴盤になるわけじゃあありません、むしろこういう”何てことないカッコ良さ”をシンプルに聴かせてくれるアルバムを、後生大事に聴いていきたいと、硬派なハーパー兄貴のブロウを聴きながら思うのです。

70年代ジャズ、ええですよ。





『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』

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2018年01月17日

友川かずき 桜の国の散る中を

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友川かずき/桜の国の散る中を
(キング/SHOWBOAT)


洋楽はもちろん大好きですが、時折息を吸うように日本語の歌を心身に取り入れたい時があります。

アタシはどちらかというと言語というのは、活字で取り込むタイプです。

しかし相当に飢えてしまいますと、もう取り込むなんて生易しい方法では何もかも足りないという時がある。

そういう時は、まるでピストルから撃ち放たれた弾丸のような、剥き出しの痛みや激しさを孕んだ言葉、そのどうしようもない”強さ”を持った歌を聴きます。

で、友川かずき(現:友川カズキ)です。

この世のあらゆる抒情と憤怒と悔恨を呑み込んで、それを血ヘドのように吐き出す強烈なヴォーカル、そして、それと同等かそれ以上の破壊力を持つ彼の言葉。

その歌からは、何かを表現したいとか、こういう音楽をやりたいとか、そういった前向きな欲求に基づく衝動ではなく、もっと何かこうどうしようもない内側と外側の衝動に潰される寸前の自我が、まるで断末魔の悲鳴を挙げているような、そんな”ギリギリ”をずっと感じております。

あのね、カッコイイもの、価値観を粉砕してくれるもの、窮屈な意味から良い感じに外れてしまっているものを、アタシは割と簡単に”パンクだ”と言いますが、そういう条件からも友川かずきの音楽を棲家としている情念ははみ出してしまう。

1975年にフォークシンガーとしてデビューした人ですが、当然流行の青春フォークのカテゴリに当然入るはずもなく、現在に至るまでこれはずっと”孤高のパンクシンガー”だと。

色んな音楽聴いてきて、それぞれにグッと感動してきたんだけれども、この人ほど「これは○○だね」と、ジャンルで括れない人はいないし、だからといって無節操に色んなサウンドを観に纏ってきている人でもない。むしろサウンドに関しては自らが激しく掻き鳴らすアコースティック・ギターを中心としたシンプルなもので、その時々で編成が変わるだけです。でもパンク、ゆえにパンク。




【収録曲】
1.口から木綿
2.おどの独白
3.赤子の限界
4.問うなれば
5.点
6.闇
7.犬
8.桜の国の散る中を(会田哲士君の霊に捧ぐ)
9.囚われのうた


今現在も精力的な活動をしていて、出してるアルバムは結構な数になりますが、ハッキリ言ってこの人の作品はどれを聴いても衝撃です。

本日アタシが聴いていたのは、1980年リリースの5枚目のアルバム『桜の国の散る中を』。

1970年代後半に友川は、現在も共に音楽活動をやっている頭脳警察のドラム&パーカッション奏者、石塚俊明と出会って意気投合。そのサウンド表現をより先鋭的なものにしつつ、深く関わっていた演劇の世界からも多くのインスピレーションを得て、作品や楽曲の完成度を高めており、この作品は正にそんな時期に作られたアルバムです。

プロデュースは石塚俊明で、バックにはギター、ピアノ、ベース、ドラムを中心に、コーラスや和楽器(尺八等)など、様々な音を配した、非常に日本土着の”地の感じ”の強いサウンドであります。

そこに乗り、中心で炸裂する友川自身の声、歌、歌詞がもう何と言いますか、残酷で美しい。

特に中盤からの『問うなれば』『闇』『犬』『桜の国の散る中を』『囚われのうた』からの怒涛の展開は、もう何度も何度も耳から叩き込んで脳裏に埋めて、心で何度も噛み締めました。春、花、死、海、そういった根源的なものがどうしようもなく日本的なものを生々しい鮮やかさで描くイメージと、寄せては返す冬の荒波のような音・・・。

勢いレビューが感覚的な文体になってしまっているのは、かれこれ20年以上前に友川から受けた死んで生き返ってしまうほどの衝撃を、まだ上手く消化出来ないでいるからです。


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2018年01月16日

スキップ・ジェイムス Complete Early Recordings

6.jpgSkip James/Complete Early Recordings
(Yazoo)

1960年代のフォーク・ブルース・リヴァイバル。

この時戦前に録音を残し、その後消息を絶っていた伝説のブルースマン達が次々と”再発見”され、再び音楽シーンの表舞台で、多くの”生のブルース”を聴いたことのない聴衆に、多くの感動をもたらしました。

その中で、アメリカ白人の若者達に、一際人気だったのがミシシッピ・ジョン・ハートです。

この人の音楽は”ブルース”といって強烈泥臭くなく、どちらかというといわゆるフォークソングの範中語られてもいいぐらいに、のどかで牧歌的なものでありました(つうか戦前の、ブルースが流行する前の音楽はこんなだった)。

加えて、ともすれば気難しかったり、酒飲んで暴れるような曲者の多いブルースマン達の中にあって実に人当りが良くて、凄いミュージシャンなのに話をするとまるで近所のおじいちゃんのように飄々としてとても優しかったミッシシッピ・ジョン・ハートの周囲には、常に昔話をせがむ子供のように、ピュアな若者達が群がっておりました。

「ミスター・ジョン・ハート」

「ん?ジョンでいいよ」

「リクエストいいですか?かなり古い歌なんですが」

「あぁ、俺が知ってれば何だって歌うよ」

といった具合に、褒められてもやや無茶ぶりなリクエストでもニコニコと笑顔で返すミシシッピ・ジョン・ハートでしたが、若者達のある一言だけは

「それは違うよ」

と、やや厳しい顔で否定していたと言います。

その一言とは

「ミスター・ジョン・ハート。あなたは世界一のブルースマンだ、恐らく再発見された誰よりも上手い」

といったような

「アンタが一番」

といったニュアンスのことでした。

そういうことを言われた時、彼は決まってこう言っておりました。

「・・・お前さん達は何も分かっちゃいない。スキップ・ジェイムスを聴いたことがあるか?ヤツは俺なんかより全然凄いんだよ。俺の歌やギターなんてのはせいぜい凡人の上等なレベルぐらいのもんだが、スキップは別格だ。人間離れしているよ。深過ぎて付いて行けるヤツがなかなかいないがね、凡人とは違う次元でブルースと会話しているのはヤツだけだ。とにかくスキップ・ジェイムスを聴いてみることだよ」

と。

その”伝説の中の伝説”スキップ・ジェイムスは、確かに他のブルースマン達とは全く違う”異次元”を感じさせるブルースマンです。

アタシが初めて彼の名前を知ったのは、ロバート・ジョンソンのブックレットの記述で、ロバートの曲の中でもとりわけ重く、禍々しい沈鬱なムードに彩られた『ヘルハウンド・オン・マイ・トレイル(地獄の猟犬が追ってくる)』は、スキップ・ジェイムスのスタイルから多大な影響を受けているとの一文を目にしたことが始まりでした。

とはいっても、その時は「へー」と思ったぐらいでしたが、数年後、中古のレコードで『Great Bluesmen Newport』(Vanguard:LP77)というオムニバス盤を購入しました。

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正にこのライヴ盤こそが、戦後再発見されたレジェンド達が一堂に会したニューポート・ブルース・フェスティヴァルのステージをそのまんま収録したマスターピースな名盤だったんですが、当時はそんなこと知りません。

ただ

「うぉお、これすごい、サン・ハウスにフレッド・マクダウェル、ライトニン・ホプキンスにジョン・リー・フッカーまで入ってる!買いだ」

と、単純に知ってる大物ブルースマン達の名前が並んでるというだけで買ったんですが、これに実はスキップ・ジェイムスが入っておりました。

でも正直、この時の印象は

「ん?何だこのスキップ・ジェイムスって人は?裏声で静かに歌ってて、何か変わった人だなぁ」

ぐらいのもんでした。

ブルースっていうと「強烈、濃厚、激烈」みたいなものを、戦前だろうが戦後だろうが勝手に求めていたアタシにとっては、その頃はまだまだ彼の繊細な妖気が漂うディープ・ブルースを理解できる感性がなかったといえばそれまでのこと。

そう、彼を特に評価していたミシシッピ・ジョン・ハートですら

「ヤツのブルースは深過ぎて付いて行けるヤツは少ないんだ」

と言っていた、正にその通りなんです。

でも、スキップ・ジェイムスのブルース・・・いや、彼のブルースに憑いている不可思議な”もの”の存在を、旋律と共に実感するのに、時間はそんなにかかりませんでした。

それから数か月後、Yazoo原盤で、当時国内盤は日本のVIVIDから出ていた『ルーツ・オブ・ロバート・ジョンソン』というコンピレーションがありまして、コレの1曲目に入っていたのが、スキップ・ジェイムスの代表曲『Devil Got My Woman』の戦前に録音されたオリジナル・ヴァージョン。


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ブルースの曲としては極めて珍しい、マイナー・キーでボロンボロン奏でられるイントロの重たいリフ、そして、どこかあの世の冷たい地の底から、誰かがか細く助けを求めているような「...アァァァァァイガッタビィアデェボォォゥ...」という、痛切極まりない声と歌い出しのフレーズ。

よくわかんないけど、よくわかんないけど、これは何かこう、ブルースの・・・いや、もう何というか、すっごい大袈裟かもしれないけど、人間の”闇”だ、闇の部分がこういう音楽になって、こういう人の声になって鳴り響いているんだ。何これ、スキップ・ジェイムス?えぇ、マジかよ、こんな凄い人だったのか?いやもうこれ人じゃねぇな、だったら何なんだよ、凄ぇ・・・。

と、脳内混乱&絶句に次ぐ絶句でありました。

マジですか?ええマジですよ、だからスキップ・ジェイムス聴いてくださいね皆さん。

スキップ・ジェイムスのブルースは、確かに他の誰とも違います。

その沈鬱で、実際にマイナー・キーとメジャーやセブンスの間を不安定にゆらゆらと音階がゆらめいているような究極に繊細であやうい雰囲気、絹を擦ったようなファルセット、そして独特の複雑な展開と細かく高度なテクニックが伴奏のリズムの中に散りばめられたギター、時々弾かれる、基本ブギウギなんだけど、ストップ・モーション(つまりフレーズの唐突なぶった切りで生まれる無音の”間”)を多用した、単純にノセてくれないピアノのどれもが、ちょっと似た人すらいないほどに個性的で、また、捉えどころはないけれどもその背後にある確かな”何か”、そう、衝動的なものの巨大な気配に揺り動かされて、歌や演奏として発せられているのは、怖いぐらいリアルに感じることが出来ます。

1902年ミシシッピのベントニアという寒村に、牧師の子として生まれ、教会で両親達の演奏の手伝いをするうちに身に付いた基礎的な技術、当時としては珍しく高校まで進学し、そこで音楽に合わせてとにかく愉快に踊りまくったことから”スキッピー”(跳ねる奴)というあだ名が付き、それがそのままブルースマンとしての”スキップ”という芸名になったけど、そのもっともらしいエピソードのどれもが、彼のどこまでもおぼろな異世界から漏れているようなブルースを聴くと、史実と幻想のあやふやな境界で空しく溶けていってしまうのです。






1.Devil Got My Woman
2.Cypress Grove Blues
3.Little Cow and Calf Is Gonna Die Blues
4.Hard Time Killin' Floor Blues
5.Drunken Spree
6.Cherry Ball Blues
7.Jesus Is a Mighty Good Leader
8.Illinois Blues
9.How Long Blues
10.4O'Clock Blues
11.22-21 Blues
12.Hard Luck Child
13.If You Haven't Any Hay Get on Down the Road
14.Be Ready When He Comes
15.Yola My Blues Away
16.I'm So Glad
17.What Am I to Do Blues
18.Special Rider Blues


そしてスキップは、1931年に大手パラマウント・レコードの目に止まり、”ブルースマンとして”一気に18曲のレコーディングを行います。

パラマウントはきっと売れると見込んで、スキップにレコーディングの謝礼として現金を渡し、録り溜めていた演奏を、SP盤で小出しにして儲けようと画策しましたが、出されたのは結局『Devil Got My Woman』をはじめとした数曲のみ。

パラマウントは折からの不景気と経営不振がたたって倒産してしまい、スキップのレコードがそれ以上世に出ることもなく、スキップ自身もブルースとは早々に縁を切り、また元の敬虔な牧師の家庭に戻り、その後30年以上説教師としてつつましく生活をしておりました。

何故、スキップがティーンの頃まではダンスが大好きな、陽気な少年だったのに、急に憑かれたように重く沈鬱なブルースを歌う男になってしまったのか、何故ミシシッピの、デルタよりも更に寂れたペントニアという地にあって、有名なデルタのブルースマン達と頻繁にセッションしていた訳でもなく、長旅に出てあちこちで名を売って有名になっていた訳でもない彼に、大手パラマウントがレコーディングの話を持ちかけたのか、何故ブルースマンになった彼が再び教会に戻ってきた時、家族は受け入れることが出来たのか、これらは全くの謎であります。

そんなスキップが”再発見”されたのが、丁度体調を崩して入院していた地元の病院でのこと。

白人リサーチャーの熱心な説得により、最初はブルースを再び歌うことに難色を示していたスキップは、手始めとしてニューポートでの大掛かりなフェスティバルに出演することを承諾。

サン・ハウスほどのインパクトもなく、ミシシッピ・ジョン・ハートほどの親しみ易さとも無縁の、ただひたすら内側と対話するかのような彼のブルースが熱狂と共にアツく受け入れられることはありませんでしたが、熱心にブルースを求める聴衆の中には必ず彼の歌と演奏の虜になる人間は必ず一定数いたし、ミュージシャンや仲間のブルースマン達は

「あれは凄い、俺達とは別の世界にいる」

と、敬意と恐れが入り交じった複雑な口調で、彼の事を語るのでした。

フォーク・ブルース・リヴァイバルの中でスキップは、多くのライヴを行い、録音もこなしました。

しかし、再発見された時は既に病魔に侵されていたのでしょう、3年ほど活動をして程なく体調を崩して入院。1969年に死去。

亡くなる少し前にクリームが彼の『l'm So Glad』をカヴァーし、その印税が病気の治療費に充てられていたそうであります。

その繊細なブルース表現とは裏腹に、スキップは雄弁な男だったそうです。特に話題が人種の事となると彼は差別に関する自分が受けた不条理にストレートな怒りをぶつけ、相手が白人であろうと意見を臆せず言って毅然としていたと云います。

が、ブルースの事はほとんど語らず、結局私達は彼がどうやってあの独特な、裏声を多用するヴォーカル・スタイルを身に付けたか、何故オープンDmという特種なチューニングでギターを弾くことを思い付いたのか、その動機の手掛かりすらも掴むことが出来ません。

スキップ・ジェイムス、彼は本当の意味でブルースの"闇"そのもののような存在だったのかも知れません。





”ブルース入門編 〜初心者のための優しいブルース講座〜”



『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』

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ラベル:ブルース 戦前
posted by サウンズパル at 19:33| Comment(0) | ブルース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする