2018年01月16日

スキップ・ジェイムス Complete Early Recordings

6.jpgSkip James/Complete Early Recordings
(Yazoo)

1960年代のフォーク・ブルース・リヴァイバル。

この時戦前に録音を残し、その後消息を絶っていた伝説のブルースマン達が次々と”再発見”され、再び音楽シーンの表舞台で、多くの”生のブルース”を聴いたことのない聴衆に、多くの感動をもたらしました。

その中で、アメリカ白人の若者達に、一際人気だったのがミシシッピ・ジョン・ハートです。

この人の音楽は”ブルース”といって強烈泥臭くなく、どちらかというといわゆるフォークソングの範中語られてもいいぐらいに、のどかで牧歌的なものでありました(つうか戦前の、ブルースが流行する前の音楽はこんなだった)。

加えて、ともすれば気難しかったり、酒飲んで暴れるような曲者の多いブルースマン達の中にあって実に人当りが良くて、凄いミュージシャンなのに話をするとまるで近所のおじいちゃんのように飄々としてとても優しかったミッシシッピ・ジョン・ハートの周囲には、常に昔話をせがむ子供のように、ピュアな若者達が群がっておりました。

「ミスター・ジョン・ハート」

「ん?ジョンでいいよ」

「リクエストいいですか?かなり古い歌なんですが」

「あぁ、俺が知ってれば何だって歌うよ」

といった具合に、褒められてもやや無茶ぶりなリクエストでもニコニコと笑顔で返すミシシッピ・ジョン・ハートでしたが、若者達のある一言だけは

「それは違うよ」

と、やや厳しい顔で否定していたと言います。

その一言とは

「ミスター・ジョン・ハート。あなたは世界一のブルースマンだ、恐らく再発見された誰よりも上手い」

といったような

「アンタが一番」

といったニュアンスのことでした。

そういうことを言われた時、彼は決まってこう言っておりました。

「・・・お前さん達は何も分かっちゃいない。スキップ・ジェイムスを聴いたことがあるか?ヤツは俺なんかより全然凄いんだよ。俺の歌やギターなんてのはせいぜい凡人の上等なレベルぐらいのもんだが、スキップは別格だ。人間離れしているよ。深過ぎて付いて行けるヤツがなかなかいないがね、凡人とは違う次元でブルースと会話しているのはヤツだけだ。とにかくスキップ・ジェイムスを聴いてみることだよ」

と。

その”伝説の中の伝説”スキップ・ジェイムスは、確かに他のブルースマン達とは全く違う”異次元”を感じさせるブルースマンです。

アタシが初めて彼の名前を知ったのは、ロバート・ジョンソンのブックレットの記述で、ロバートの曲の中でもとりわけ重く、禍々しい沈鬱なムードに彩られた『ヘルハウンド・オン・マイ・トレイル(地獄の猟犬が追ってくる)』は、スキップ・ジェイムスのスタイルから多大な影響を受けているとの一文を目にしたことが始まりでした。

とはいっても、その時は「へー」と思ったぐらいでしたが、数年後、中古のレコードで『Great Bluesmen Newport』(Vanguard:LP77)というオムニバス盤を購入しました。

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正にこのライヴ盤こそが、戦後再発見されたレジェンド達が一堂に会したニューポート・ブルース・フェスティヴァルのステージをそのまんま収録したマスターピースな名盤だったんですが、当時はそんなこと知りません。

ただ

「うぉお、これすごい、サン・ハウスにフレッド・マクダウェル、ライトニン・ホプキンスにジョン・リー・フッカーまで入ってる!買いだ」

と、単純に知ってる大物ブルースマン達の名前が並んでるというだけで買ったんですが、これに実はスキップ・ジェイムスが入っておりました。

でも正直、この時の印象は

「ん?何だこのスキップ・ジェイムスって人は?裏声で静かに歌ってて、何か変わった人だなぁ」

ぐらいのもんでした。

ブルースっていうと「強烈、濃厚、激烈」みたいなものを、戦前だろうが戦後だろうが勝手に求めていたアタシにとっては、その頃はまだまだ彼の繊細な妖気が漂うディープ・ブルースを理解できる感性がなかったといえばそれまでのこと。

そう、彼を特に評価していたミシシッピ・ジョン・ハートですら

「ヤツのブルースは深過ぎて付いて行けるヤツは少ないんだ」

と言っていた、正にその通りなんです。

でも、スキップ・ジェイムスのブルース・・・いや、彼のブルースに憑いている不可思議な”もの”の存在を、旋律と共に実感するのに、時間はそんなにかかりませんでした。

それから数か月後、Yazoo原盤で、当時国内盤は日本のVIVIDから出ていた『ルーツ・オブ・ロバート・ジョンソン』というコンピレーションがありまして、コレの1曲目に入っていたのが、スキップ・ジェイムスの代表曲『Devil Got My Woman』の戦前に録音されたオリジナル・ヴァージョン。


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ブルースの曲としては極めて珍しい、マイナー・キーでボロンボロン奏でられるイントロの重たいリフ、そして、どこかあの世の冷たい地の底から、誰かがか細く助けを求めているような「...アァァァァァイガッタビィアデェボォォゥ...」という、痛切極まりない声と歌い出しのフレーズ。

よくわかんないけど、よくわかんないけど、これは何かこう、ブルースの・・・いや、もう何というか、すっごい大袈裟かもしれないけど、人間の”闇”だ、闇の部分がこういう音楽になって、こういう人の声になって鳴り響いているんだ。何これ、スキップ・ジェイムス?えぇ、マジかよ、こんな凄い人だったのか?いやもうこれ人じゃねぇな、だったら何なんだよ、凄ぇ・・・。

と、脳内混乱&絶句に次ぐ絶句でありました。

マジですか?ええマジですよ、だからスキップ・ジェイムス聴いてくださいね皆さん。

スキップ・ジェイムスのブルースは、確かに他の誰とも違います。

その沈鬱で、実際にマイナー・キーとメジャーやセブンスの間を不安定にゆらゆらと音階がゆらめいているような究極に繊細であやうい雰囲気、絹を擦ったようなファルセット、そして独特の複雑な展開と細かく高度なテクニックが伴奏のリズムの中に散りばめられたギター、時々弾かれる、基本ブギウギなんだけど、ストップ・モーション(つまりフレーズの唐突なぶった切りで生まれる無音の”間”)を多用した、単純にノセてくれないピアノのどれもが、ちょっと似た人すらいないほどに個性的で、また、捉えどころはないけれどもその背後にある確かな”何か”、そう、衝動的なものの巨大な気配に揺り動かされて、歌や演奏として発せられているのは、怖いぐらいリアルに感じることが出来ます。

1902年ミシシッピのベントニアという寒村に、牧師の子として生まれ、教会で両親達の演奏の手伝いをするうちに身に付いた基礎的な技術、当時としては珍しく高校まで進学し、そこで音楽に合わせてとにかく愉快に踊りまくったことから”スキッピー”(跳ねる奴)というあだ名が付き、それがそのままブルースマンとしての”スキップ”という芸名になったけど、そのもっともらしいエピソードのどれもが、彼のどこまでもおぼろな異世界から漏れているようなブルースを聴くと、史実と幻想のあやふやな境界で空しく溶けていってしまうのです。






1.Devil Got My Woman
2.Cypress Grove Blues
3.Little Cow and Calf Is Gonna Die Blues
4.Hard Time Killin' Floor Blues
5.Drunken Spree
6.Cherry Ball Blues
7.Jesus Is a Mighty Good Leader
8.Illinois Blues
9.How Long Blues
10.4O'Clock Blues
11.22-21 Blues
12.Hard Luck Child
13.If You Haven't Any Hay Get on Down the Road
14.Be Ready When He Comes
15.Yola My Blues Away
16.I'm So Glad
17.What Am I to Do Blues
18.Special Rider Blues


そしてスキップは、1931年に大手パラマウント・レコードの目に止まり、”ブルースマンとして”一気に18曲のレコーディングを行います。

パラマウントはきっと売れると見込んで、スキップにレコーディングの謝礼として現金を渡し、録り溜めていた演奏を、SP盤で小出しにして儲けようと画策しましたが、出されたのは結局『Devil Got My Woman』をはじめとした数曲のみ。

パラマウントは折からの不景気と経営不振がたたって倒産してしまい、スキップのレコードがそれ以上世に出ることもなく、スキップ自身もブルースとは早々に縁を切り、また元の敬虔な牧師の家庭に戻り、その後30年以上説教師としてつつましく生活をしておりました。

何故、スキップがティーンの頃まではダンスが大好きな、陽気な少年だったのに、急に憑かれたように重く沈鬱なブルースを歌う男になってしまったのか、何故ミシシッピの、デルタよりも更に寂れたペントニアという地にあって、有名なデルタのブルースマン達と頻繁にセッションしていた訳でもなく、長旅に出てあちこちで名を売って有名になっていた訳でもない彼に、大手パラマウントがレコーディングの話を持ちかけたのか、何故ブルースマンになった彼が再び教会に戻ってきた時、家族は受け入れることが出来たのか、これらは全くの謎であります。

そんなスキップが”再発見”されたのが、丁度体調を崩して入院していた地元の病院でのこと。

白人リサーチャーの熱心な説得により、最初はブルースを再び歌うことに難色を示していたスキップは、手始めとしてニューポートでの大掛かりなフェスティバルに出演することを承諾。

サン・ハウスほどのインパクトもなく、ミシシッピ・ジョン・ハートほどの親しみ易さとも無縁の、ただひたすら内側と対話するかのような彼のブルースが熱狂と共にアツく受け入れられることはありませんでしたが、熱心にブルースを求める聴衆の中には必ず彼の歌と演奏の虜になる人間は必ず一定数いたし、ミュージシャンや仲間のブルースマン達は

「あれは凄い、俺達とは別の世界にいる」

と、敬意と恐れが入り交じった複雑な口調で、彼の事を語るのでした。

フォーク・ブルース・リヴァイバルの中でスキップは、多くのライヴを行い、録音もこなしました。

しかし、再発見された時は既に病魔に侵されていたのでしょう、3年ほど活動をして程なく体調を崩して入院。1969年に死去。

亡くなる少し前にクリームが彼の『l'm So Glad』をカヴァーし、その印税が病気の治療費に充てられていたそうであります。

その繊細なブルース表現とは裏腹に、スキップは雄弁な男だったそうです。特に話題が人種の事となると彼は差別に関する自分が受けた不条理にストレートな怒りをぶつけ、相手が白人であろうと意見を臆せず言って毅然としていたと云います。

が、ブルースの事はほとんど語らず、結局私達は彼がどうやってあの独特な、裏声を多用するヴォーカル・スタイルを身に付けたか、何故オープンDmという特種なチューニングでギターを弾くことを思い付いたのか、その動機の手掛かりすらも掴むことが出来ません。

スキップ・ジェイムス、彼は本当の意味でブルースの"闇"そのもののような存在だったのかも知れません。





”ブルース入門編 〜初心者のための優しいブルース講座〜”



『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』

サウンズパル店主高良俊礼の個人ブログ
http://ameblo.jp/soundspal/
ラベル:ブルース 戦前
posted by サウンズパル at 19:33| Comment(0) | ブルース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする