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2017年08月07日

ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン

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ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン
(Impulse!/ユニバーサル)


コルトレーンを聴いていると、どんな時期のどんな演奏でも

「あぁ、やっぱり”うた”だなぁ」

と、深く思います。

特に亡くなる直前の激烈な演奏は、やもすると原曲をけちょんけちょんに破壊して、やりたい放題のめちゃくちゃをやっているかのように聞こえる人もおるでしょう。

実際アタシも晩年のコルトレーンの演奏は、特にコルトレーンとファラオの凄まじい絶叫合戦で得られる本能的なカタルシスを求めて聴いております。

でも、ガーーー!と激しい演奏のふとした瞬間に「あ、今のメロディ・・・」と、死ぬほど美しくて儚いものあ、一瞬表れてはまたすぐに、音のガレキの洪水の中に消えていってしまうんです。

この切なさですよ。

気が付くと、死ぬほど激しい演奏の中に、そんな切なさを必死で追い求めるようにコルトレーンを聴きまくり、アルバムを集めまくっている自分がおりました。

あのですね

ジャズって究極に言えば切ない音楽。

その切なさは、コルトレーンだろうがマイルス・デイヴィスだろうが、ルイ・アームストロングだろうが、とにかくジャズマンと呼ばれる人達が、色んな形で持っている共通の影みたいなもの。

モダン・ジャズのノリノリの曲でも、スウィングの陽気な演奏でも、フリー・ジャズの激しい演奏でも、ふと気がつくと

「あ、今切ないのが通り過ぎていった」

という感覚にヒリッとすることってあるんです。

その切なさの正体を、アタシは未だ”これ!”と定義することはできません。

ミュージシャン個人の波乱万丈の人生から抜け出して、演奏に宿った何かかも知れませんし、ジャズという音楽が生まれた時にどこかからやってきて棲みついたものかも知れません(たとえばブルース)。

アタシは思います。コルトレーンという人は、どこかでその”切なさ”に憑り付かれ、気が付けば夢中になって、それこそ様式も何もかも投げ捨ててそれを追うためにまっしぐらに走って行った人なんじゃないかと。

僅か10年ちょっとのソロ・アーティストとしてのキャリアの中で、いくら時代がそうだったとはいえ、余りにもめまぐるしくスタイルを変えておりますし、アタシら素人がたとえば50年代のモダン・ジャズなコルトレーン聴いて

「かっけー!この路線でずっとやってても全然歴史に名前残るー!」

と、思っても、当のコルトレーンに”これでいい”という文字はなかった。

音を聴いている限りコルトレーンには、売れるため、満足のため、或いは名声のために音楽やっている感じがこれっぽっちもしない。

特に自分のカルテットを組んだ1961年以降は、そんなコルトレーンの”まっしぐら”に拍車がかかっておるようで、それこそそのサウンドには、聴いてる方も夢中で必死で喰らい付くように聴いてしまう。で、その激しさや荘厳さでたくさんデコレートされた演奏の中から立ち上る「あ、切ない・・・」と聴いてまたコルトレーンが聴きたくなる。

無限ループしそうなので、コルトレーンの、その切ない切ない”うた”に話を戻しましょう。

実は自分のバンドを結成して、続けざまに激しくディープで、ある意味ドロドロなアルバムをリリースしていたコルトレーンが、ふと原点に戻った”うた”をストレートに聴かせてくれるアルバムをまとめてレコーディングしていた時期がありました。

1962年に録音された『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、ジャズ名盤としても有名な『バラード』、そして翌1963年にヴォーカリストのジョニー・ハートマンを迎えて作られた『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』であります。





【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts)
ジョニー・ハートマン(vo)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル
2.テディケイテッド・トゥ・ユー
3.マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ
4.ラッシュ・ライフ
5.ユー・アー・トゥー・ビューティフル
6.オータム・セレナーデ

さあこれからガンガン激しい方向へ進むぜ!

と、気力がみなぎっていたコルトレーンが、何故急に、しかも集中的にオーソドックスなジャズのスタイルで、バラード・アルバムを3枚もレコーディングしたのでしょう。

それについては余りに自分の世界に突っ走りがちなコルトレーンを、レコード会社側が心配して

「そういうのは後でたくさん録音させたげるから、ここらでひとつ一般の人にも聴きやすいアルバムを作らないか?」

と提案したとか、コルトレーンのマウスピースの調子が悪くて、激しい演奏が出来なかったからとか(『バラード』の時)色々言われておりますが、アタシは恐らく前者じゃないかと思います。

とにかく、コルトレーンの音楽をまずは知らない人にも多く聴いてもらうために、有名スタンダードばかりを集めた聴き易いアルバムを作ったり、ジャズファンやミュージシャンの誰もが敬愛するデューク・エリントンと共演させたり、「黒いシナトラ」と呼ばれ、耳のうるさいファンや批評家連からも高い評価を得ていた、ムーディーな歌謡を得意とするジョニー・ハートマンと組ませたり、とにかく試行錯誤してアルバム3つも作ったImpulse!プロデューサー、ボブ・シールの苦労はどれほどだったろうと思いますが、コルトレーンが素晴らしいのは、このいずれのアルバムでも、不満を感じさせることなく、素直な本気を切々と、スタンダードの美しい調べに乗せて聴かせてくれることであります。

ジョニー・ハートマンとの共演は、よくある”ヴォーカリストの伴奏をコルトレーンがする”というのではなくて、歌とサックスが完全に対等に、演奏の中で寄り添い合って、そしてハートマンのなめらかな憂いに満ちたバリトン・ヴォイスが、コルトレーンの中〜高音域をやるせなく行き来するテナーと、この上なく美しいハーモニーを奏でております。

このアルバムを聴くまでは、恥ずかしながらジョニー・ハートマンのことは知らず、あろうことか男性ジャズ・ヴォーカルはどうも親父臭くて苦手だとさえ思ってました。

が、やっぱりスタイルとかは関係ないんですね。

コルトレーンはインタビューで

「ジョニー・ハートマンという、全然すたるの違うヴォーカリストと共演したわけだが、彼の印象は?」

と訊かれ、一言

「バリトンだ」

とだけ答えたそうですが、コルトレーンが恐らく求める”切なさ”を、この人の声は持っている。たとえば「When I 〜」とハートマンが一節歌ううだけで、その場の空気は何か深い紫色に染められてからセピアに変わるみたいな、そんな色彩を感じさせるものです。

ハートマンの歌を受けて、一音一音丁寧に、噛み締めるように出てくるテナーのフレーズは、言葉を追いかけて飛んで行っては消えてゆく生き物のようであり、それ聴くだけでもコルトレーンが、ハートマンの声に言葉にならない程に深い何かを感じ、それに呼応していったのが分かります。

それこそインタビューで「どうだった?」と訊かれて「はいはい、さようでございますね、えーこれこれこうでした」って答えられるようじゃ全然感情移入した演奏じゃない。だからコルトレーンはハートマンの声を追っていくうちに夢中になって自我がとろける快感に浸っていたんじゃないでしょうかね。

どの曲もスローテンポで、や、これはもう曲がどうとかそういう類のものではなく、ただひたすら流して切なさに浸りながら、自然と遠い目になるためのアルバムです。もう何十回、何百回聴いてますが、このアルバムに終始ゆんわりただよっている、優しくもヒリヒリした切なさの正体を上手く言い表せる言葉を私はまだ持っておりません。







(名盤『バラード』はコチラ↓ やっぱり2枚1組で聴いてほしいのです)




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サウンズパル店主高良俊礼の個人ブログ
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posted by サウンズパル at 19:31| Comment(0) | 大コルトレーン祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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