
アストル・ピアソラ/ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽第2集
(RCA/BMGジャパン)
アタシには持病があって、そのうちのひとつが
「特定の周期でアストル・ピアソラしか聴けなくなる病」
なんです。
えぇすいません、何事かと思ったらそんなことかと思われた方がほとんどだと思いますが、いやしかし、そんぐらいアストル・ピアソラって人の音楽の中毒性ってのは、ちょっと比類するものを見ないぐらい激しいもんなんですよ。
アストル・ピアソラという人は、アルゼンチン・タンゴの巨匠であります。
タンゴという音楽は、最初その原型はスペインのあるイベリア半島で生まれ、やがてそのスペインの植民地であったアルゼンチンの首都である港町、ブエノスアイレスで大いに発展した音楽です。
何よりも娯楽が求められた港町の酒場や娼館で、人々を踊らせ、時にしみじみと感動に浸してくれる音楽がタンゴであり、その躍動感溢れるリズムと旋律は、独自のダンス文化となってアルゼンチン全土に広まって、やがて国民的な音楽として老若男女問わず親しまれるようになりました。
で、ピアソラなんですが、この人はアルゼンチンの国民的な音楽であるタンゴを、もっともっと芸術として優れたものにして、例えばヨーロッパのクラシックや、アメリカのジャズにも負けないような、高度な理論に基づいた複雑な構造を持つ、ダンスと鑑賞の両方が高い次元で調和した音楽にしようとしていた。
ピアソラがタンゴと関わるようになったのは、1940年代。若手の優れたバンドネオン奏者で作/編曲家でもあったピアソラは瞬く間に頭角を現し、すぐに自分の楽団を結成します。
ところが、せっかく誰もが憧れるマエストロ(タンゴの楽団のリーダー)になったものの、ピアソラは「タンゴという音楽に限界を感じる、このままではタンゴはダメになる」と失望して楽団を解散。その後は裏方として伴奏やアレンジや作曲の仕事などをこなしながら、本格的なクラシックを学ぶため、ヨーロッパへ渡航するチャンスをひたすら待つ日々でありました。
1954年に念願の「クラシックの学生」としてフランスに留学、そこらへんのいきさつは下のリンクに詳しく書いてありますが
そこで初めてピアソラは「自分の魂の原点はやはりタンゴだ!タンゴを全く新しいものに生まれ変わらせることこそが自分の使命だ!」
と開眼して、翌年アルゼンチンに帰ってからは、それまでの「定型化した娯楽音楽のタンゴ」に真っ向から挑みかかるような大胆な手法で作られた(ジャズやクラシックの技法をふんだんに取り入れております)曲を発表したり、で、そんな斬新な曲を演奏するために、エレキギターなどのタンゴでは”ふさわしくない”とされていた楽器などを導入したりと、かなり革新的なことを次々とやりましたが、当時は家に脅迫状が来たり、ピアソラ自身歩いてる時に尾行されたり、激しい抵抗に遭いました。
最初は、そんな感じでピアソラのタンゴは
「あんなのはタンゴじゃない」
「踊れない、楽しくない」
「音楽の破壊者だ、いや、アイツは悪魔だ」
と、散々にののしられました。そして、ピアソラはそんな物騒なアルゼンチンにいるよりはとニューヨークに移住して、そこで評価され、彼の前衛的なタンゴは、世界で「アルゼンチンのタンゴ」として、初めて正しく評価されてゆくのです。
世界でピアソラの実力が認められ、それまでアルゼンチンのローカル音楽に過ぎなかったタンゴもまた世界で認知されたことによって、それまで批判的だったアルゼンチンでの評価も変わります。
「アイツのタンゴは、確かにクラシックみたいな難しいことをやってはいるが、タンゴの大事な部分は壊してないよな」
「よく聴けばちゃんと踊れるような曲じゃないか」
と、それまでロクに聴きもしないで批判していた人達も、ピアソラの音楽に改めてじっくりと耳を傾け、その複雑な構造と過激な抒情性に彩られた楽曲の中に、熱くたぎる本質的な”タンゴ”の魂を認め、ピアソラのタンゴは現代タンゴの代名詞とまでなったのでありました。
はい、ちょいと前置きが長くなりましたが(いつものことですいませぇん)、では「ピアソラのタンゴ」というのは何なのか?何故アタシのような人間が「これしか聴けないぐらい」の中毒になってしまうのか?という話なんですが、つまりはピアソラは、元々スーパー哀愁なタンゴという音楽に、クラシックの構造美とジャズのスリルを加えることによって、その哀愁を過剰なまでの密度と質量を持つ、つまり”ハイパー哀愁”に変えた、と言ってもいいでしょう。
さっきに説明したような、タンゴの歴史だの音楽のがちゃがちゃしたあれこれだのわからんでも、とにかくピアソラの作る曲ってのは、激しくて切ない。えぇ、もうとにかく神羅万象あらゆる事象の中にあるスピリッツの中から激しさと切なさだけを選んでもぎ取って、それを聴く人の胸に直接ねじり込んでくるような、そんな美しい過激なのでありますよ。
ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第二集
1.バルダリート
2.あるヒッピーへの頌歌
3.オンダ・ヌエベ
4.ブエノスアイレスの夏
5.バイレス 72
6.ブエノスアイレス零時
7.エル・ペヌルティモ *
8.ジャンヌとポール *
9.平穏な一日 *
*ボーナストラック
さて、そんなピアソラの作る曲はいずれもハイパー哀愁の極みなんでありますが、今日はその中でも特に
「これ!すごっ!!」
と最初に聴いて声も出なかった曲を紹介します。
『あるヒッピーへの頌歌』
です。
1972年にリリースされた『ブエノスアイレスの現代ポピュラー音楽』というシリーズがありまして、このシリーズは第1集も第2集も、ピアソラの渾身の名曲と、9重奏団というちょっとした管弦楽団規模の編成で綴られた渾身のアレンジが聴ける力作として愛されているアルバムですが、この第2集の2曲目です。
曲自体は、ピアソラがこの時世界を席捲していたロックへの回答のような曲を作ろうと意欲に燃えて作曲したと言われております。ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、ピアノが見事に狂おしい抒情を敷き詰める波のうねりのようなアレンジに、切々としたメロディーをこれでもかとたたみかけるピアソラのバンドネオンと、ファンクのような裏打ちのフレーズを、クラシカルなアレンジに何の違和感もなく、しかも全体を引き締めるインパクト十分な響きで溶け合うギター(オスカル・ロペス・ルイスですよ、アントニオ・アグリと共にピアソラの両腕と言われる最高のギタリストです)、全ての音が「ここ!」というところで炸裂して際立って、そして胸にくる。あぁもう言葉なんてこんな凄い演奏の前には無力っていう陳腐しか吐けない自分に腹が立つぐらい素晴らしい演奏です。
アルバム全体としても、とにかくピアソラの真骨頂であるアレンジの綿密さをとことん追求できるスモール・オーケストラ編成の中で、それぞれの楽器がそれぞれの奏でる旋律に絡み合う官能的ですらある音の溶け合いと響き合いに、どこまでも心打たれます。
ピアソラのバンドネオンと同じぐらい前に出て、ガンガン主旋律を奏でているアントニオ・アグリのヴァイオリン、大事な時に必ず印象的なフレーズを決めてくれるオスカル・ロペス・ルイスのギター、そしてジャズで培った即興力ともしかしたらピアソラ以上にタンゴに対しては斬新で挑戦的なアプローチを企てていたであろう鬼才、オズバルド・タランティーノのピアノ(3曲目『オンダ・ヌエベ』のイントロからのアドリブは鳥肌ものです)と、ピアソラの演奏には欠かせないメンバー達の個性もしっかりと光っております。
たとえばピアソラのバンドネオンが、ある切ないメロディーを弾くと、それに上の誰かが必ず応えるようなフレーズで絡んでくる。すると別の誰かがまたそのフレーズにスッと入ってきて、更にバックのバイオリンやチェロやコントラバス、パーカッションが津波のようにリフをかぶせてくるんです。
「良い曲」っていうとまず美しいメロディーが分かりやすく独立してて・・・ってなりますけど、ピアソラの場合はそれぞれ限度を超えた哀愁で固められた別々の楽器の音がひとつの空間で同時に鳴って「ぐわしゃっ!!」ってなるところに、えも言えぬカタルシスがあるんです。聴かないと分からない部分かと思いますが、聴けばわかります。こういった正しい発狂には、ぜひとも多くの人に悶えて頂いて、ぜひ中毒になって欲しいと思います。
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サウンズパル店主高良俊礼の個人ブログ
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『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』
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