ディープなコラム こちらにも書いてます♪

2017年08月23日

ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ

ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ
(Impulse!)

暦の上ではもう秋ですが、残暑はまだまだ続いております。

嫌ですね、暑いしセミはもうこの世の終わりとばかりにミンミンジンジン鳴きまくってるし、一年で一番体力も気力も奪われるのがこの8月の後半なんですが、こんな重たい季節に聴きたくなるコルトレーンのアルバムに『ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ』というのがあります。

終始どんよりとした不穏な空気と、聴く人の意識を深く深く瞑想の内側へと誘うかのような、ある意味スピリチュアルなムードが、アルバム全体を覆い尽くすような、いかにも60年代以降Impulse!時代のコルトレーンといった辛口でも甘口でもない、しいて言えば”重口”の味わいですね。

録音年は1965年で、名盤で代表作と言われる
『至上の愛』と、最大の問題作と呼ばれる『アセンション』の間に挟まれた時期に録音され、しかもさっきも言ったように全編に渡って重く内省的なムードで覆い尽くされておりますので、コルトレーンの作品の中でもいささか地味な扱いを受けていたこともあって、お客さんにオススメしてても「へー、こんなのあったんだ。知らなかった〜」とか言われることもありました。

えぇ、そんな可哀想なアルバムなんですが、さっきも言ったように、このアルバムには独自の濃厚を極めた”重口の味わい”があって、アタシは大好きです。名盤や問題作と呼ばれている作品に衝撃を受けた後に、実際にアーティストの深い持ち味、もしかしたらその人が本当に表現したかった深層のサウンドは、こういったアルバムの中にこそあるんだと思います。

それこそ『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』を聴いて

「うわぁ!何だこりゃ!!コルトレーンってこんなヤバい音楽やってたんだ!こんなんパンクですわ、ぬはっ!!」(←アホ)と、すっかり鼻息を荒くしたハタチそこらのチンピラだったアタシが、池袋のWAVE(懐かしいね)のアナログコーナーに走って買った2枚目のコルトレーンのレコードがコレ。

そん時も確かギラギラ暑い夏の時期で、朝も昼も夜も「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」と「カルテット・プレイズ」をターンテーブルに交互に乗せてききまくっておりました。

ムシ暑い部屋の中で、汗をダラダラかきながら「よし聴くぞ!」と気合いを入れて聴いてたのが「アゲイン」の方で、意識せずムードに浸るために頻繁に流してたのは、実は「プレイズ」の方だったんですよね。何というか「聴こう」と構えなくても針を落としてレコードを回してさえおれば、自然と音が入ってくる。

そして厚さと疲れにいい感じにヤラレた心身を休めるために部屋の片隅に腰を下ろし、タバコふかしながらボーッとする時、ひたすらダークで重たいはずのこのアルバムに入ってる楽曲、コルトレーン・カルテットの演奏から繰り出されるフレーズのひとつひとつが、不思議な心地良さを伴って、体から心の奥底の方(多分)に、ジワジワと入り込んできて、そこに優しく拡がっていった感覚を、今でも思い出しますし、今でもこのアルバムを聴くとその感覚がじわっと蘇ってきます。




【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts,ss)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
アート・デイヴィス(b,B)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.チム・チム・チェリー
2.ブラジリア
3.ネイチャー・ボーイ
4.ソング・オブ・プレイス


まぁ、そんなことを言っても、所詮は”個人の感想”です。

聴いてどう感じるかは、これからこの作品に出会う皆様方お一人お一人に体験して頂くことにして、ちゃんとした説明を致します。

実はこのアルバムには”チム・チム・チェリー”というもうひとつの呼び名があって、それは何でかと言いますと、はい、一曲目に収録されておるからなんですね。

”チム・チム・チェリー”といえば、ミュージカル「メリー・ポピンズ」の歌です。それ以前に

チムチムニー、チムチムニー、チムチームチェリー、わたしーはーえんとーつ そうじーやーさん♪


と、皆さん保育園や幼稚園なんかで唄った経験はあるんじゃないんでしょうか。そう、我が国ではそんな感じで子供の歌う童謡として有名です。

そんな、みんなが知っているマイナー調の3拍子の曲、これをコルトレーンが最高にカッコいいジャズ・ワルツにしてるんです。ソプラノ・サックスを最初は切々と哀愁のあるメロディーを慈しむように、でもアドリブに入ると指の速度を早め、狂おしさに青白い炎を燃やしながら。

コルトレーンの伝記本とかジャズのガイドブックの類では、コルトレーン最大のヒット曲となった「マイ・フェイバリット・シングス」みたいなミュージカル・ナンバーで、3拍子で、しかも同じようにソプラノ・サックスを吹いて、再びヒットを飛ばそうと目論んだレーベル側が、コルトレーンにカヴァーさせたと書いてありまして、確かにそんな背景はレコーディング時にはあったと思うんですが、もうこの時期の”コルトレーン・ミュージック”を4人で揺るぎない領域にまで作り上げたコルトレーン・カルテットには、ヒットとか有名曲とかそういうのはどうでもいいことで、スタンダードをいかに自分達の世界の奥深くで鳴らしてしまうか、それだけを激しく思考しながら、別世界の”チム・チム・チェリー”がここに仕上がっております。

同じことは、3曲目の「ネイチャー・ボーイ」にもいえます。

ナット・キング・コールのヒット曲として知られ、サラ・ヴォーン、スタン・ゲッツ、マイルス・デイヴィスなどなど、多くの有名ミュージシャンがカヴァーしている、大スタンダード。

原曲は美しいバラードですが、これも主たるメロディーがマイナースケールで出来ておりまして、例えばナット・キング・コールなんかのヴァージョンは「ちょっと物悲しい」くらいの悲しさを、コルトレーンはもうどこまでも沈み込む壮大なスケールの鎮魂歌のように仕上げていて、逆にアタシは何年か後にナット・キング・コールのオリジナルを聴いて「え?こんな感じだったの」とぶったまげたほど。

有名ミュージカルナンバーと、誰もが知る歌モノの有名バラードを入れたアルバムなのに、キャッチ―に仕上がるはずの曲なのに、ここまで深淵に沈めてしまうコルトレーン、容赦なくかっこいいです。。。

オリジナルの「ブラジリア」「ソング・オブ・プレイス」も、同様に深く沈み込むナンバーであります。

特にエンディングの「ソング・オブ・プレイス」は、ジミー・ギャリソンの長い長いベース・ソロがありまして、これがアルバム全体にそれまで漂っていた静かな熱気を吸いこむブラックホールのようで、で、実際ギャリソンの重厚な静寂に収縮されたカルテットのエネルギーが、3分30秒辺りで低音をゆっくりと響かせながら登場してくるコルトレーンの、まるで暗闇に流れ出すマグマのようなテナーで、これまた重く響き渡る。

アルバム全体的に重く、最後までドカーン!と炸裂する場面はないんですが、とてつもないエネルギーが煮立ってることを、この「ソング・オブ・プレイス」のコルトレーンが出てきて吹いている場面でいつも感じます。


深く、重く、・・・と何度も言ってますが、これこそがコルトレーンです。






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2017年08月21日

ジョン・コルトレーン ザ・ラスト・トレーン

1.jpg
ジョン・コルトレーン/ザ・ラスト・トレーン

(Prestige)


よく言われる話ですが、これはコルトレーンのラスト・アルバムではありません。

で、これもよく言われる話ですが、このアルバムでコルトレーンはソプラノ・サックスを吹いておりません。

えぇと、簡単に説明しますと、1950年代後半に、コルトレーンが当時所属していたPrestigeというレーベルでレコーディングしていて、そのまんまうやむやになっていた音源を集め、1965年にあたかも新作のようにリリースしたアルバムです。

その頃コルトレーンは、Impulse!に所属して、ちょうどマッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズとの黄金のカルテットで『至上の愛』などをリリースしていた時で、つまり人気実力共にひとつのピークを迎えていた時期ですね。

Prestigeというレコード会社は、50年代60年代のジャズ名盤を多く残してくれたレーベルなんですが、リアルタイムではニューヨークの雑居ビルの一角に狭いオフィスを持っているだけの、弱小インディーレーベルに過ぎなかったわけです。

「どうも最近シノギが厳しいのぅ。昔は小遣いもらえるちゅうてウチに頭下げてレコーディングさせてくれゆうとった連中が今はギャラはいくらで印税はどうのとかうるさくてやれんわい。それにコルトレーンのガキちゅうたら、インパルスに行ってから人気者になりよった・・・。おぅ?コルトレーン??。・・・そうじゃ!まだ発売しとらんコルトレーンの音源をのぅ、新作みたいにして売ったるんじゃ。結構あるじゃろう、それを全部レコードにして売っちゃれ、あぁ、売り上げちゃれい!」

と、まるで仁義なき経営理念にのっとって、あざとく稼ごうとしとった訳です。

で、Prestigeからはコルトレーンとの契約がとっくに切れていたにも関わらず、人気に便乗しての未発表音源が、あたかも新作のようにリリースされてた時期がありまして、この『ラスト・トレーン』もそんな一枚です。

とりあえず契約当時吹いてなかったソプラノを吹いている写真を使って”いかにも”な感じに仕上げてるところに、このレーベルのドス黒い商魂みたいなのを感じて、アタシは結構好きです。

ついでに言うとラストトレーンっていういう意味深なタイトルも、コルトレーンのラストアルバムでは当然なくて、Prestigeでレコーディングした最後のセッションという訳でもなくて

「はい、これがウチから出る最後のコルトレーンです。ウチにはもうこれでコルトレーンの音源は何も残っておりません。最終大サービスですよー!」

という、実にレーベルな都合で付けただけっていうオチも、アタシは結構嫌いじゃないです。




【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts)
ドナルド・バード(tp,@C)
レッド・ガーランド(p,@BC)
アール・メイ(b,A)
ポール・チェンバース(b,@BC)
アート・テイラー(ds,AB)
ルイス・ヘイズ(ds,@C)

【収録曲】
1.ラヴァー
2.スロウトレーン
3.バイ・ザ・ナンバーズ
4.降っても晴れても



そんな胡散臭い経緯でリリースされたこのアルバムではありますが、中身は実にしっかりした、”1950年代末の急成長期のコルトレーン”の姿をリアルに捉えたものであり、作品としても素晴らしくバランスの良いものであります。

コルトレーンにとってはマイルス・バンドを一旦卒業して、セロニアス・モンクのところでの修行期間のうちに、独自の突き抜けたアドリブ技法を身に付けた1957年から58年という時期の3つのセッションを集めたもので、アップ・テンポとミディアム・ナンバーで溌剌とした爽快な演奏が楽しめます。

「ラヴァー」というバラードっぽいタイトルが付いていながら、細かい音符を空間にうわぁ!っと敷き詰めていく”シーツ・オブ・サウンド”の迫力とスピード感に圧倒されるオープニングから、ミディアム・テンポのブルージーな展開の中でベースとドラムだけを従えてグングン加速してゆく「スロウトレーン」、長年コンビを組んできたレッド・ガーランドのやるせなくもエレガントなピアノとの、もう”魂のやりとり”と言ってもいい至福の掛け合いがグッとくる「バイ・ザ・ナンバーズ」、そしてこれも気合いの入ったミディアム・テンポの中でコルトレーンの吹きまくりとガーランドの後ろ髪引かれるように儚いソロが絵画のように美しい対比で輝く「降っても晴れても」。

たった4曲しか収録されていないのに、いずれもたっぷり時間をかけて濃い演奏がなされ、かつドラマチック極まりない(特に後半)ので、ガツンと味わった気分になれます。

コルトレーンのプレイに関しては、この時期特有の”モダン・ジャズの領域にギリギリとどまってる感じ”が凄くあって、いまにもアウトしてどこかへすっ飛んで行きそうなほどに勢いのあるアドリブを、モダン・ジャズの象徴みたいなレッド・ガーランドのピアノやドナルド・バードのトランペットが必死で現世に留めているような、そんな緊迫したやりとりを見ているかのようでもあります。

いや、全体的な空気が、ジャズとして完璧なほど落ち着いていて、アドリブのフレーズひとつにしても、ソロからソロに移るほんの一瞬の絶妙な間ひとつにしても、全てがしっくりきた大人の演奏なだけに、余計に表には出ていないせめぎ合いみたいなものを感じます。これもまた名盤です。


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2017年08月15日

ニューシング・アット・ニューポート

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ジョン・コルトレーン&アーチー・シェップ/ニューシング・アット・ニューポート
(Impuslse!/ユニバーサル)


さてさて、昨日はコルトレーンの関係者の一人としてアーチー・シェップという兄さんがとても重要なんだよということをお話ししました。

1960年代は、コルトレーンの影響を受けたサックス奏者が次々出てくる中で、実にシェップという人は、自らの持つ、前衛と伝統の深い部分を掛け合わせた個性でもって、コルトレーンのスタイルに真っ向から挑んだ。

と、同時に持ち前の頭の良さと売り込み能力で、コルトレーンとも、所属するインパルスレーベルとも密接な関係を築き上げることに成功した人であり、アタシはこの人のプレイヤーとしての激烈で猪突猛進なスタイルと、冷静で分析力のあるプロの音楽家としての顔とのギャップが非常に面白いと思いつつ、そのどこまで人間臭いキャラクターにぞっこん惚れております。

はい、今日も大コルトレーン祭の一環で、コルトレーンのアルバムを紹介するんですけどね、今日ご紹介するのは、そんなシェップ兄さんとコルトレーンとが連名でリリースしたアルバム『ニューシング・アット・ニューポート』であります。



【パーソネル】
(AB)
ジョン・コルトレーン (ts,ss)
マッコイ・タイナー (p)
ジミー・ギャリソン (b)
エルヴィン・ジョーンズ (ds)

(D〜H)
アーチー・シェップ (ts)
ボビー・ハッチャーソン (vib)
パール・フィリップス (b)
ジョー・チェンバース(ds)


【収録曲】
1.ノーマン・オコナー神父による紹介
2.ワン・ダウン、ワン・アップ
3.マイ・フェイヴァリット・シングス
4.ビリー・テイラーによる紹介
5.ジンジャーブレッド・ボーイ
6.コール・ミー・バイ・マイ・ライトフル・ネーム
7.スキャッグ
8.ルーファス
9.ル・マタン・デ・ノワール

アメリカの名物ジャズフェスとして、古くから”ニューポート・ジャズ・フェスティバル”というのがございます。

1950年代に制作された映画『真夏の夜』のジャズでもおなじみの、この一大フェスティバルは、とにかくジャズからブルースから一流のミュージシャン達を集め、毎年大いに盛り上がったフェスの花形でありますが、1960年代も半ばになってくると、それまでのスウィングやモダン・ジャズ勢に加えて、前衛とかフリーとか言われていた、どちらかというと避暑地での優雅な野外コンサートにはそぐわないコワモテの新しい表現の担い手達もこのステージに出てくるようになってきます。

つまりそれまでアンダーグラウンドな、一部のミュージシャンや芸術愛好家しか評価しなかった前衛的なジャズが、ようやく社会的な評価を(それでもまだまだ賛否両論ではありましたが)得て注目されてきたんですね。

で、この流れの中心にいたのはやっぱりコルトレーンです。

コルトレーン本人は「とにかく新しい音楽を創造するんだ」という、まっすぐに内側を向いた気持ちでただ音楽的な実験や冒険をあれこれやっていただけに過ぎなかったんですが、やはり

「あのマイルス・デイヴィスのバンド(つまりモダン・ジャズの本流)にいたコルトレーンが、自分のバンドを組んでからどんどん聴いたこともないような音楽を作ってくる」

と、ジャズファンの間で話題になっておったんです。



「コルトレーンのやってるような、あんな激しくてどこか根源的な衝動に溢れた音楽を一体何と言えばいいのだろう」

「そりゃあお前さん、聴いたこともないようなジャズだからニュー・ジャズって言うんだよ」

「なるほどそうか、ニュージャズか。そういやちょいと前からオーネット・コールマンとかセシル・テイラーとかも、何だかよくわかんない実験的なジャズをやってたね」

「あぁ、アイツらの音楽もニュージャズだろうな」

「お前さん方ちょっと待ってくれ、コルトレーンとかテイラーとか、コルトレーンのやってるジャズは音楽理論の約束事から解放された自由な音楽だぜ。俺は彼らのやっているジャズはそういう意味で”フリー・ジャズ”って呼びたいね」

「なるほどフリージャズか、そいつはいいね。でも最初っから何かハズレてる感じのするオーネットやセシル・テイラーと違って、コルトレーンのはどこか違うんじゃないか?アドリブで盛り上がっていくうちにスケールアウトしたりはするけど、演奏そのものはアブストラクトじゃない、リズムもエルヴィン・ジョーンズがしっかりした4ビート叩いてるしマッコイ・タイナーのピアノだって激しいがメロディアスだ。だからフリージャズとまではいかないんじゃないか?」

「確かにそれは言えてる、でも最近はコルトレーンのいるインパルス・レコードから、彼と親しい若手のレコードがガンガンリリースされてんだよ。彼らはコルトレーンの影響を受けたとか言われてるんだけどもっと過激だ。トレーンをニュージャズって言うんなら連中の音楽はもっとハチャメチャなフリージャズだよなぁ」


さぁさぁこのアルバムはそんな”ニュージャズだ!””フリーだ!”と盛り上がる世間の声も大きくなっていた1966年のニューポートでのライヴ・アルバムでございます。

タイトルの「ニューシング」といえば、インパルスレコードの旗印であり「こんなに新しいジャズをニューポートのステージでやってんだぞ、どうだ!」という、並みならぬ勢いが伺えますな。

当然ながら”ニューシング”の筆頭であるコルトレーンのグループと、最注目の若手として、自分のグループを率いて暴れていたアーチー・シェップが、このレコードの主役として選ばれ、それぞれの演奏が収録されております。つまりカップリング盤。

余談ですが最初にこのレコードを見た時は「おぉぉ、コルトレーンとシェップの共演ライヴがあるんだ、すげぇ、ウホ!あのアセンションのライヴ盤みたいな感じかぁ!?」と、ウホウホ興奮したのですが、解散寸前とはいえマッコイ、ギャリソン、エルヴィンのカルテットと、アーチー・シェップのグループはキッチリと別々でありまして、しかも収録曲のほとんどはシェップ・グループのもの。


オリジナルのレコード盤は、コルトレーンの演奏は「ワン・ダウン・ワン・アップ」一曲のみ、残り4曲はシェップで「えぇぇ!?」と思いましたが、実にこの「ワン・ダウン・ワン・アップ」がほとばしる熱演で実にエグいエグい(!)。ミディアム・テンポに非常にシンプルなリフが繰り返されるオープニングから、まるで怒気を孕んだかのようなエルヴィンのシンバルが炸裂して、そこからなだれ込むマッコイの鍵盤ガキンガッキンの打撃ソロ、これが6分50秒ですよ、6分50秒!で、コルトレーンがぐわぁぁーっと登場して吹きまくる、それはもうまるで絶叫のような凄まじいソロ。これで後半およそ6分間を一気に蹂躙して、あっという間の12分40秒がおわり。

この日のステージそのものが、コルトレーン・カルテットは2曲30分しかやっていないと本には書いてありましたが、このエネルギー、この緊張感、現場は物凄い密度の30分だったと思います。

続くシェップは、ボビー・ハッチャーソンのヴィブラフォンを加えた、ピアノなしの変則カルテットで、コチラも狂暴。遠慮というものを知らないシェップの「バギャ!ボギョ!」と雄叫びを上げるテナーの強烈な破壊力とむせかえるようなブルージーさと、やけにクールでひんやりした質感のボビー・ハッチャーソンのヴィブラフォンという正反対のサウンド・キャラクターが、激烈な演奏の中に不思議な緊張感と浮遊感がないまぜになった独特の空気を作り出し、コルトレーンのグループとは全く違う磁場のカオスでありますね。

コルトレーン単独の作品ではありませんが、それでもどちらのグループも熱演中の熱演で、とにかく余計なことを考えさせずに楽しませてくれる素晴らしいライヴ・アルバムです。特にスタジオ盤ではあれこれ趣向を凝らすシェップが、やっぱりライヴだと考えていたことすべてをかなぐり捨てて演奏の鬼と化すテナー・プレイはカッコイイですね。”ニューシング”の旗のもと、この時代の若手が、いかにコルトレーンを意識して、それを越えようと必死になっていたかが迫力と共に伝わってきます。





『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』

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2017年08月12日

デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン

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デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン
(Impulse!/ユニバーサル)


2000年年代以降「リスペクト」という言葉を若い人達が使うようになって、アタシは凄く嬉しく思っております。

リスペクトっていえば、尊敬とか敬意を払うということですね。はい、尊敬とか敬意とかいうのは、人間関係の根幹であり、最も深い部分に美しく根ざすものだと思うんです。

家族や友達など、近しい間柄での信頼に根差したリスペクトも素晴らしいですが、やっぱりアタシは、年齢とか趣味とかものの考え方とかが違っても、どこか尊敬できるものを他人に感じる「いや、あの人とは考え方違うけど、正直凄い人だと思う」とかいうのこそ、大いなる敬意、つまりリスペクトだと思いますね。

さてここに、そんな”リスペクト”に満ち溢れた素晴らしい一枚のアルバムがあります。

タイトルは『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』。

はい、戦前からジャズの代表的なビッグバンド・リーダー、ピアニストと呼ばれ、ずっと人気と尊敬を一身に集めてきたデューク・エリントンと、戦後60年代以降の”新しいジャズ”のリーダー格として売り出し中だったコルトレーンとが、年齢やスタイルの違いを越えて、美しい音楽を魂と魂の大いなる交感で作り上げた素晴らしい作品です。

録音年月日の1962年9月26日といえば、コルトレーンが丁度『バラード』を録音していた時期ですね。つまりこのアルバムはレーベル側の

「ジョン、アグレッシブないい感じのアルバムは結構出したから、そろそろ落ち着いて聴けるバラードか何かでも作ろうか。古くからのジャズファンにも”お、アイツはちゃんとしとる”って思われるようなジャズアルバムをさ」

といった意向に沿ったものと思われます。

レコーディングはたった一日だけ、しかしあのエリントン(当たり前ですが当時どのミュージシャンからも尊敬されていました)が来るとなれば、コルトレーンのテンションはかなり上がったでしょう。

エリントンにしてみれば

「あぁ、そういえばインパルスのボブ・シールがスタジオに来てくれって言ってたな。誰のレコーディングだったか・・・。あぁそうそう、ジョン・コルトレーンとかいう子だよ。私はよく知らないが、ジョニー(ホッジス)のバンドに一時いた若い子らしいね」

ぐらいのもんだったと思いますが、エリントンの偉いところは、相手が若造だろうがよく知らない相手であろうが、「あ、コイツの音楽は本気だな」と分かればスッと懐に入って行って、一人のミュージシャンとしてそれに応えるところであります。




【パーソネル】
デューク・エリントン(p)
ジョン・コルトレーン(ts,ss)
アーロン・ベル(b)
ジミー・ギャリソン(b)
サム・ウッドヤード(ds)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.イン・ア・センチメンタル・ムード
2.テイク・ザ・コルトレーン
3.ビッグ・ニック
4.スティーヴィー
5.マイ・リトル・ブラウン・ブック
6.アンジェリカ
7.ザ・フィーリング・オブ・ジャズ


実際に、このアルバムのセッションも、ジャケットが表すように緊張しているコルトレーンのところにェリントンがスッと寄って行って

「大丈夫だよ、君は君のスタイルでやればよい。君はサックス奏者だろう?なら私は君のプレイが映えるような伴奏をしよう」

と、優しくささやきながら行っているかのようであります。

アルバムにはのっけから名演が入っておりまして、美しいピアノが心地良い静かな時間の流れを導き、それに呼応するテナーが上質な歌を紡いでゆく「イン・ア・センチメンタル・ムード」。もうこのアルバムがどんなアルバム?って問いには「これをお聴きなさい」で全て答えられるぐらいの美しいバラードです。

この曲はエリントンが、看板ソロイストであったジョニー・ホッジスの、甘くとろけるようなアルトをフィーチャーした演奏を多く残した、いわばエリントン版「サックスのための協奏曲」とでも言える曲です。

しかも、そのアルト奏者のジョニー・ホッジスというのは、サックスを始めたばかりの頃のコルトレーンにとってはもう神様みたいな憧れのアイドル。で、目の前にいるのはホッジス通り越してデューク・エリントン。

そのデュークが「イン・ア・センチメンタル・ムードをやろうか。君、吹いてごらん」とニコニコして言ってる。普通に考えて何この神シュチュエーション!という事態でしょう。

で、ここからが”リスペクト”です。

コルトレーン、恐らくはエリントンやホッジスに対する、もうほぼ万感に近い思いをテナーに込めて吹いてます。当たり前ですがいくらホッジスに憧れてて、エリントンに並ならぬ敬愛の念を持っているからといって、まんまホッジスのようなスタイルではやらない。それやるとかえって失礼だということを心得ているコルトレーン。彼のテナーから芳香と共に放たれるのは、繊細でシャープな輪郭の、まぎれもなくコルトレーンのトーンとメロディです。

2曲目以降も、終始リラックスした極上の雰囲気の中、両者互いに敬意を払いながら、絶妙に自分のスタイルを織り交ぜながら演奏をしております。

コルトレーンがソロを吹いている間はバッキングに徹して、しかも絶妙な”間”と”空間”をそこに敷いてゆくエリントンのピアノ、本当に素晴らしいですね。そのエリントンの”間”を察知したコルトレーンも、どの曲でも吹き過ぎず、得意の”シーツ・オブ・サウンド”奏法の核の部分だけを抽出したような、中身の濃い演奏で聴かせてくれます。

レコーディングの最中、緊張でうまく表現できないと悩んだコルトレーンは「もう一度録音していいですか」と、切羽詰まった感じで言ったそうですが、エリントンは「どうしてもう一度録るんだい?一度やって素晴らしい演奏が録れた。それで十分じゃないか」と答え、コルトレーンは自分の一番痛いところを突かれた上で、ジャズの極意を諭されたような気持になったといいます。

たった一回のセッション、全曲ワン・テイク。そしてコルトレーンのことをよく知らないエリントン。もし、何度かレコーディングを重ねたら、コルトレーンにも”激情スイッチ”が入ってガンガンに吹きまくる展開があったでしょうし、それに応えたエリントンが「マネー・ジャングル」で見せたような本気を出して、コルトレーンをねじ伏せる瞬間もあったかも分かりません。

でも、アタシはこのアルバムに関しては、この距離感、このお互いに敬意を払い合いながら音楽的な”優しさ”の部分を絶妙な間合いで溶け合わせた演奏こそが至福だと思います。









posted by サウンズパル at 11:54| Comment(0) | 大コルトレーン祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月07日

ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン

1.jpg
ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン
(Impulse!/ユニバーサル)


コルトレーンを聴いていると、どんな時期のどんな演奏でも

「あぁ、やっぱり”うた”だなぁ」

と、深く思います。

特に亡くなる直前の激烈な演奏は、やもすると原曲をけちょんけちょんに破壊して、やりたい放題のめちゃくちゃをやっているかのように聞こえる人もおるでしょう。

実際アタシも晩年のコルトレーンの演奏は、特にコルトレーンとファラオの凄まじい絶叫合戦で得られる本能的なカタルシスを求めて聴いております。

でも、ガーーー!と激しい演奏のふとした瞬間に「あ、今のメロディ・・・」と、死ぬほど美しくて儚いものあ、一瞬表れてはまたすぐに、音のガレキの洪水の中に消えていってしまうんです。

この切なさですよ。

気が付くと、死ぬほど激しい演奏の中に、そんな切なさを必死で追い求めるようにコルトレーンを聴きまくり、アルバムを集めまくっている自分がおりました。

あのですね

ジャズって究極に言えば切ない音楽。

その切なさは、コルトレーンだろうがマイルス・デイヴィスだろうが、ルイ・アームストロングだろうが、とにかくジャズマンと呼ばれる人達が、色んな形で持っている共通の影みたいなもの。

モダン・ジャズのノリノリの曲でも、スウィングの陽気な演奏でも、フリー・ジャズの激しい演奏でも、ふと気がつくと

「あ、今切ないのが通り過ぎていった」

という感覚にヒリッとすることってあるんです。

その切なさの正体を、アタシは未だ”これ!”と定義することはできません。

ミュージシャン個人の波乱万丈の人生から抜け出して、演奏に宿った何かかも知れませんし、ジャズという音楽が生まれた時にどこかからやってきて棲みついたものかも知れません(たとえばブルース)。

アタシは思います。コルトレーンという人は、どこかでその”切なさ”に憑り付かれ、気が付けば夢中になって、それこそ様式も何もかも投げ捨ててそれを追うためにまっしぐらに走って行った人なんじゃないかと。

僅か10年ちょっとのソロ・アーティストとしてのキャリアの中で、いくら時代がそうだったとはいえ、余りにもめまぐるしくスタイルを変えておりますし、アタシら素人がたとえば50年代のモダン・ジャズなコルトレーン聴いて

「かっけー!この路線でずっとやってても全然歴史に名前残るー!」

と、思っても、当のコルトレーンに”これでいい”という文字はなかった。

音を聴いている限りコルトレーンには、売れるため、満足のため、或いは名声のために音楽やっている感じがこれっぽっちもしない。

特に自分のカルテットを組んだ1961年以降は、そんなコルトレーンの”まっしぐら”に拍車がかかっておるようで、それこそそのサウンドには、聴いてる方も夢中で必死で喰らい付くように聴いてしまう。で、その激しさや荘厳さでたくさんデコレートされた演奏の中から立ち上る「あ、切ない・・・」と聴いてまたコルトレーンが聴きたくなる。

無限ループしそうなので、コルトレーンの、その切ない切ない”うた”に話を戻しましょう。

実は自分のバンドを結成して、続けざまに激しくディープで、ある意味ドロドロなアルバムをリリースしていたコルトレーンが、ふと原点に戻った”うた”をストレートに聴かせてくれるアルバムをまとめてレコーディングしていた時期がありました。

1962年に録音された『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、ジャズ名盤としても有名な『バラード』、そして翌1963年にヴォーカリストのジョニー・ハートマンを迎えて作られた『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』であります。





【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts)
ジョニー・ハートマン(vo)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル
2.テディケイテッド・トゥ・ユー
3.マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ
4.ラッシュ・ライフ
5.ユー・アー・トゥー・ビューティフル
6.オータム・セレナーデ

さあこれからガンガン激しい方向へ進むぜ!

と、気力がみなぎっていたコルトレーンが、何故急に、しかも集中的にオーソドックスなジャズのスタイルで、バラード・アルバムを3枚もレコーディングしたのでしょう。

それについては余りに自分の世界に突っ走りがちなコルトレーンを、レコード会社側が心配して

「そういうのは後でたくさん録音させたげるから、ここらでひとつ一般の人にも聴きやすいアルバムを作らないか?」

と提案したとか、コルトレーンのマウスピースの調子が悪くて、激しい演奏が出来なかったからとか(『バラード』の時)色々言われておりますが、アタシは恐らく前者じゃないかと思います。

とにかく、コルトレーンの音楽をまずは知らない人にも多く聴いてもらうために、有名スタンダードばかりを集めた聴き易いアルバムを作ったり、ジャズファンやミュージシャンの誰もが敬愛するデューク・エリントンと共演させたり、「黒いシナトラ」と呼ばれ、耳のうるさいファンや批評家連からも高い評価を得ていた、ムーディーな歌謡を得意とするジョニー・ハートマンと組ませたり、とにかく試行錯誤してアルバム3つも作ったImpulse!プロデューサー、ボブ・シールの苦労はどれほどだったろうと思いますが、コルトレーンが素晴らしいのは、このいずれのアルバムでも、不満を感じさせることなく、素直な本気を切々と、スタンダードの美しい調べに乗せて聴かせてくれることであります。

ジョニー・ハートマンとの共演は、よくある”ヴォーカリストの伴奏をコルトレーンがする”というのではなくて、歌とサックスが完全に対等に、演奏の中で寄り添い合って、そしてハートマンのなめらかな憂いに満ちたバリトン・ヴォイスが、コルトレーンの中〜高音域をやるせなく行き来するテナーと、この上なく美しいハーモニーを奏でております。

このアルバムを聴くまでは、恥ずかしながらジョニー・ハートマンのことは知らず、あろうことか男性ジャズ・ヴォーカルはどうも親父臭くて苦手だとさえ思ってました。

が、やっぱりスタイルとかは関係ないんですね。

コルトレーンはインタビューで

「ジョニー・ハートマンという、全然すたるの違うヴォーカリストと共演したわけだが、彼の印象は?」

と訊かれ、一言

「バリトンだ」

とだけ答えたそうですが、コルトレーンが恐らく求める”切なさ”を、この人の声は持っている。たとえば「When I 〜」とハートマンが一節歌ううだけで、その場の空気は何か深い紫色に染められてからセピアに変わるみたいな、そんな色彩を感じさせるものです。

ハートマンの歌を受けて、一音一音丁寧に、噛み締めるように出てくるテナーのフレーズは、言葉を追いかけて飛んで行っては消えてゆく生き物のようであり、それ聴くだけでもコルトレーンが、ハートマンの声に言葉にならない程に深い何かを感じ、それに呼応していったのが分かります。

それこそインタビューで「どうだった?」と訊かれて「はいはい、さようでございますね、えーこれこれこうでした」って答えられるようじゃ全然感情移入した演奏じゃない。だからコルトレーンはハートマンの声を追っていくうちに夢中になって自我がとろける快感に浸っていたんじゃないでしょうかね。

どの曲もスローテンポで、や、これはもう曲がどうとかそういう類のものではなく、ただひたすら流して切なさに浸りながら、自然と遠い目になるためのアルバムです。もう何十回、何百回聴いてますが、このアルバムに終始ゆんわりただよっている、優しくもヒリヒリした切なさの正体を上手く言い表せる言葉を私はまだ持っておりません。







(名盤『バラード』はコチラ↓ やっぱり2枚1組で聴いてほしいのです)




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posted by サウンズパル at 19:31| Comment(0) | 大コルトレーン祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする