ディープなコラム こちらにも書いてます♪

2017年08月30日

ジョン・コルトレーン ライヴ・イン・ジャパン

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ジョン・コルトレーン/ライヴ・イン・ジャパン
(Impulse!)


奄美では一昨日が旧暦の七夕。

七夕というのは今では短冊に願い事を書く祭り、みたいになっておりまして、小さな子供達がそれぞれ純粋なお願いを書く姿というのは、それは微笑ましいものでありますが、ここ奄美での”旧の七夕”は、お盆の時に天から帰ってくるご先祖様が、我が家の場所を見失わないようにと、長い長い笹竹にきらびやかな飾り付けをして目印にするものでございます。

この際、願い事の短冊はほとんど飾られることはありません。

無言で風にそよいでいる、色とりどりの七夕飾りというのは、何とも言えない風情があってよろしいものでございますね。

で、7月17日に亡くなったコルトレーンを偲んで、彼の素晴らしい音楽を世の人らに広く知らしめようと(といってもこんな辺境ブログに来る人なんて極めて少数だとは思いますが・汗)特集をしております。

そいでもって毎年この旧暦の七夕からお盆の時期に、コルトレーンを集中的に聴くことになるんですが、特に晩年の演奏は、何とはなしにあの世の香りがするというか、どこか別次元の安らぎに満ちているというか、そんな感じがしますので、奄美大島の、無言で風に揺れる七夕飾りに、コルトレーンの音楽をBGMとして脳内で被せてみたりすると、これがとてもしっくりくる。

もちろんコルトレーンは日本人じゃないし、多分旧暦の七夕なんて知らなかったんでしょうが、まぁそういう情緒というか心の風景的なものは、感じる人の心の中では境界もなく溶け合うんだなぁと「大コルトレーン祭」最終日の今日、しみじみと思っております。

さて、じゃあ心の中で日本的な精神世界とコルトレーンの”ジャズな精神世界”がシンクロしたところで、そんな日にふさわしいアルバムを今日は皆さんに紹介致しましょう。

コルトレーンは生涯で1度だけ日本に来て演奏しております。

60年代以降「ジャズの大物は日本に来て稼ぐ」というのが、割と常識っぽくなってきて、実際何度も来日しているジャズマンは多いのに、コルトレーンほどの有名人、コルトレーンほど日本ウケするアーティストがたった1回しか来日してないなんて(!)と、ちょっとでもジャズに詳しい方はびっくりするかも知れません。実際アタシもびっくりしました。

理由はやっぱりコルトレーンが40歳という若さで亡くなってしまったこと。デビューしてブレイクして、日本でも有名になるまでに、やや時間が足りなかったということ。めまぐるしく音楽性を深化させてゆくコルトレーンに、実はリアルタイムのジャズファンの中では、やはり賛否両論の”否”の声も結構あったということが大きいと思います。

あの〜、アタシはハタチそこらの、コルトレーンにハマりだした頃に、当時リアルタイムでジャズ熱心にジャズ聴いてた人達に話を訊いたことあるんですが

『やっぱり60年代はまだまだ”ファンキー”がジャズ好きのほとんどだったよね。アート・ブレイキーとかキャノンボール・アダレイとか、ミルト・ジャクソンの何だっけアレ?あぁ、モダン・ジャズ・カルテットね。マイルスは別格として、そういう”黒っぽくて分かりやすいジャズ”が人気があった。コルトレーン?いやいや、コルトレーンとかミンガスとかモンクはね、ニュージャズって呼ばれてたの。あの辺聴くヤツらは熱心なんだけどどこかおっかないなって、ちょっと距離置いてたね。だからその辺がジャズ喫茶なんかで好まれるようになったのは70年代だろうね、元々のジャズ好きの中に寺山修司とか白石かずことかね、演劇とか文学とかでもちょっと前衛なやつを好む連中が増えて・・・そいつらがジャズのとこにもやってきてあーでもないこーでもないとやりだしたのはコルトレーン死んじゃった後だよ。少なくとも60年代にはあんまりなかったなぁ、新宿以外ではね(笑)』

ということらしいです。

だから1966年7月の、ほぼ15日間に及ぶコルトレーンの日本ツアーも、正直このちょっと前に来ていたビートルズみたいに「凄く盛り上がって行く先々で旋風が巻き起こった」という訳にはいかなかったみたいです。

加えてこの時にマッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズが抜けた”新生ジョン・コルトレーン・バンド”のアルバムはまだ日本で発売されておらず、ファラオ・サンダース、アリス・コルトレーン、ラシッド・アリというメンバーの名前を見ても

「何?コルトレーンのツアーはマッコイとエルヴィンが来られなくなっちゃったから代役ばかりじゃねぇか。メンバーほとんど知らないやつらばっかりだぞこれ!」

と、色々と誤解もあって集客はままならず。

しかし、たとえ集客もまばらな会場であっても、強行軍のスケジュールで心身共にヘトヘトであっても手を抜いた適当なプレイでお茶を濁すコルトレーンではありません。

この『ライヴ・イン・ジャパン』という素晴らしいアルバムに刻まれた、一瞬たりとも気が抜けることがない渾身の生演奏は、それこそコルトレーンの全ライヴ音源の中でも屈指、いやいや、その高い芸術性において、これは人類の遺産として歴史にその名を深く刻まれて然るべきものであると言えましょう。





【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts,ss,as,per)
ファラオ・サンダース(ts,as,bcl,per)
アリス・コルトレーン(p)
ジミー・ギャリソン(b)
ラシッド・アリ(ds)


【収録曲】
(Disc-1)
1.アフロ・ブルー
2.ピース・オン・アース

(Disc-2)
1.クレッセント

(Disc-3)
1.ピース・オン・アース
2.レオ

(Disc-4)
1.マイ・フェイヴァリット・シングス

(Disc-5)
1.記者会見
2.3大学の学生による共同インタヴュー
3.プライヴェート・インタヴュー



この時期のコルトレーンは、もう定型の”ジャズ”という表現から大きくかけ離れ、リズムもメロディーも、その約束事の呪縛から徹底的に解放を目論んで、結果それが成功している演奏スタイルであります。

ラシッド・アリの「空間断裁細切れ不定形パルスビート」が、まるで滝のように流れれば、コルトレーンは滝壺に飛び込んでえいやぁとお経を唱える行者の如く、テナーやソプラノで長時間の壮絶なソロを繰り広げます。

そのコルトレーンのソロからバトンタッチしたファラオ・サンダースのソロはといえば、更にテンションキレッキレの「ガァァアァアアア!!」「ギョォオオオオオ!!!」と、ほとんどフレーズというよりも絶叫そのものなフリークトーンの盛大なかけ流し。

そんな中でアリス・コルトレーンのピアノは、フリーフォームっぽいけど、とても思慮深さに溢れた美しい音をパラパラパラパラ・・・と空間に敷き詰める。

ジミー・ギャリソンのベースは、そんなバンド・サウンドの中心で動じずにゴリッゴリッと骨太なビートを定型/不定形豪快に織り交ぜて渾身の力で放出する・・・。

とにかく全部の音が尋常ならざる”気”の塊なんです。よく”フリージャズ”って言われるように、それぞれの音は定型のメロディーからもリズムからも、まるでバラバラのように思えますが、これらが同じ空間で鳴り響いていると、やっぱりひとつの音楽として、聴けるんです。

コルトレーンのライヴは”長い”ということで有名ですが、このライヴ・イン・ジャパンの演奏も1曲が凄まじく長い(!)一番短い曲で25分ぐらいで、テーマからアドリブに突入していたら、もうこれは演奏というよりもひとつの”行”、精神や肉体、或いは意識のどの辺のギリギリまで行けるか、コルトレーンは何かとてつもなくデカいものに果敢に挑んでいるような気がしますが、聴く方のテンションもそれにグイグイ引きずられ、アタシはこのコルトレーンの演奏を「長い、ダルい」と思ったことはありません。

コルトレーン・グループの演奏、とてつもなく自由で、尋常ならざる”気”の塊ではあるんですが、そして特に2本のサックスが雄叫びを上げるところとかは、間違いなく過激で瞬間的な破壊力が炸裂してはおりますが、やっぱりどの曲も、演奏そのものは、えもしれぬ安らぎに向かって一丸となってゆくような、そんな多幸感が満ち溢れているような気がするのです。

特に「ピース・オン・アース」この祈りの空気が充満したイントロからもう「あぁ、音楽ってこんなに美しいものなんだ・・・」という、どこから来てどこへゆくのか分からない、正体不明の感動に、これほどまでに襲われる演奏はありません。

音楽で本気で世界を救おうと、それこそ命を削って演奏していたコルトレーン、その素晴らしい演奏を、今年も皆さんに紹介できたこと、そしてもしかしたらここを読んだ皆さんの中で「コルトレーン聴いてみようかな」と思ってその音盤と出会う人がいるかも知れないこと、嬉しく思いながら今年の「大コルトレーン祭」これにてフィナーレでございます。来年もどうぞおたのしみに。






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2017年08月27日

ジョン・コルトレーン トランジション

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ジョン・コルトレーン/トランジション
(Impulse!)

ジョン・コルトレーンという人は、もちろんジャズを代表する偉大なミュージシャンでありますが、同時に「激動の60年代を象徴するアーティスト」と言われます。

紆余曲折を経て、1961年に、コルトレーン、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズの4人による”コルトレーン・カルテット”を結成。このバンドは、コルトレーンにとっては初めて自分が追究したい音楽を、個性とセンスに秀出た若いメンバー達と存分に追究することが出来た初めてのバンドでありますが、このバンドでもってコルトレーンが追究した音楽というのが、ジャズをより人間の根源に迫る迫力のある音楽に深化させたものであり、同時に彼らの内からマグマのように湧き出る喜怒哀楽の激しい感情を剥き出しの形で演奏に叩き付けたように感じさせるものでありました。

そんな彼らの激しく、聴く側にとっては何か激しく怒っているような、もしかしたら政治的宗教的なメッセージを発しているように思えるような演奏は、黒人公民権運動やベトナム戦争といった激しく激動する社会情勢とリンクして、特に変化を求める若者達からある種カリスマ的な人気を集めるに至ったのです。

言っときますがコルトレーン自身は政治や宗教、哲学に対する造詣は深く、読書量も並ならぬものがありましたが、政治や宗教に対する発言は非常に控えめです。ひとつひとつの事件についてはメッセージを発したり、楽曲を作ったりはしても、「世の中に物申す!」という極端なスタンスとは、終生静かに距離を置く姿勢を貫いておりました。

だからコルトレーンが、というよりは、彼の60年代以降の演奏が、同時代の人々の意識に語らずして深い共感を呼び起こしていたのでしょう。それは彼の死後、50年経った2017年の現代でも変わりません。

本日ご紹介するアルバム『トランジション』は、そんなコルトレーン・カルテット末期の、こと”感情の激しい動き”という意味では、これはもう最高峰に位置する名盤です。

録音は1965年。前回ご紹介した『ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ』と同じく、カルテットの芸術の到達点を記録した『至上の愛』と、編成とジャズの定型フォーマットからの解放を試みた実験的な作品である『アセンション』との狭間の時期にレコーディングされたアルバムでありますが、神秘的な静寂が終始漂う『カルテット・プレイズ』とは対照的な、演奏の限界に挑んでいるかのような、カルテット作品中最も激しい演奏が聴けます。



【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ)(ds,@B)
ロイ・ヘインズ(ds,A)

【収録曲】
1.トランジション
2.ディア・ロード
3.組曲(プレイヤー・アンド・メディテイション:デイ/ピース・アンド・アフター/プレイヤー・アンド・メディテイション:イブニング/アフェアーメイション)


まぁ一曲目の「トランジション」からもう激しい激しい。

コルトレーンのテナーは長い長いソロを吹きまくり、そのアドリブは小節を経る毎にどんどん、定型を打ち破れとばかりにアツく激しく燃え上がっております。

もちろんカルテットの初期から、その前のエリック・ドルフィーが一時在籍していた頃から、コルトレーンのソロは過激で、長時間のアドリブの中でカッコよくスケール・アウトしていくスリリングな展開はたくさんあたのですが、この時期になるともう最初から意識的に「暴走してやる!」という意識がコルトレーンを支配していて、特にエルヴィンが叩く定型4ビートに挑みかかるようにリズムを外したフレーズで、しかもどう展開するか先が全く見えない大胆なフレーズ運びで、完全なカオスを生み出してるんですね。

そう、このアルバムで一番重要なのは、この曲と3曲目の組曲での、コルトレーンとエルヴィンとのエゴ丸出しのエグいほどの仁義なきバトルなんです。

あらゆるビートを同時に鳴らしながら、それを複合させてまるで別々のリズムが共鳴し合っているかのような独自性の強いエルヴィンのドラミング(ポリ・リズムと言います)は、コルトレーンにとっては当初最高に「自由」と「可能性」を感じさせるものであり、事実1960年から65年までは、この2人の”調制ギリギリのせめぎ合い”がカルテットの売りでした。

しかしもうコルトレーンは”調制は要らない!”と、自ら着地点や言葉のコミュニケーションを放棄したかのように、一人でどこか遠い世界を突っ走っております。エルヴィンやマッコイにとっては「おいおい、ボスはどうしちまったんだ。せめて合図ぐらいよこせよ、これじゃあ演奏にならねぇ!」と、憤慨すること甚だしかったことでしょう。ギャリソン?うん、彼は「あー、まぁ演奏中は色々あるんじゃね?知らんけどビールうめぇ」っていう鋼のメンタルの持ち主ですから、2人が脱退した後もバンドに残ることが出来ました。

エルヴィンのドラムは明らかに怒ってます。アンタを尊敬し、彼の音楽を愛し、ここまで一緒にやってきたのに、何でアンタはオレらの音に耳を貸さずに一人で突っ走ってしまうんだ!?と、シンバルの乱打やスネアのロールで、必死にリーダーに訴えているようでもあります。そんな状況でもありながら、カルテットのテンションは高く、演奏がこれまでになく凄まじく高いクオリティに達しているから余計に両者の溝の深さを、聴いてるこっちも手に汗を握りながら感じない訳にはいきません。

とにかくこの「トランジション」、カルテット崩壊寸前の、最後の完全燃焼を記録したアルバムとして、剥き出しのスリルが(今となっては)楽しめます。こと”演奏”という意味ではコレを最高傑作に挙げる人も多いのですが、その意見にはアタシも賛成です。

一曲だけ、ロイ・ヘインズがエルヴィンの代役でドラムを叩いた「ディア・ロード」という曲が入ってますが、この曲がもうコルトレーンのバラード演奏としては、これも別次元のような美しさで胸に迫るんです。あんなに激しい「トランジション」と「組曲」の間にこんな美しい演奏を入れるんだ。もうこの人達の間で”音楽”って一体どんな領域に達してたんだ・・・と、これも感嘆のため息とともに吐き出さざるを得ません。

で、こんなに凄いアルバムなんですが、実はコルトレーンは演奏の仕上がりに納得せず(恐らくもっとフリー・ジャズなことをやりたかった)、生前はオクラ入りにしていたんです。ようやく発売されたのが、死後何年か経ってから、コルトレーンにとって”新しいメンバー”だった奥さんのアリス・コルトレーンが「本人が納得していなかったとしても、コレは私の大好きだったあの素晴らしいバンドの一番凄い演奏だと思うから世に出すべきだわ」と、リリースを決意したといいます。





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2017年08月24日

ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ

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ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ
(Impulse!)

暦の上ではもう秋ですが、残暑はまだまだ続いております。

嫌ですね、暑いしセミはもうこの世の終わりとばかりにミンミンジンジン鳴きまくってるし、一年で一番体力も気力も奪われるのがこの8月の後半なんですが、こんな重たい季節に聴きたくなるコルトレーンのアルバムに『ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ』というのがあります。

終始どんよりとした不穏な空気と、聴く人の意識を深く深く瞑想の内側へと誘うかのような、ある意味スピリチュアルなムードが、アルバム全体を覆い尽くすような、いかにも60年代以降Impulse!時代のコルトレーンといった辛口でも甘口でもない、しいて言えば”重口”の味わいですね。

録音年は1965年で、名盤で代表作と言われる『至上の愛』と、最大の問題作と呼ばれる『アセンション』の間に挟まれた時期に録音され、しかもさっきも言ったように全編に渡って重く内省的なムードで覆い尽くされておりますので、コルトレーンの作品の中でもいささか地味な扱いを受けていたこともあって、お客さんにオススメしてても「へー、こんなのあったんだ。知らなかった〜」とか言われることもありました。

えぇ、そんな可哀想なアルバムなんですが、さっきも言ったように、このアルバムには独自の濃厚を極めた”重口の味わい”があって、アタシは大好きです。名盤や問題作と呼ばれている作品に衝撃を受けた後に、実際にアーティストの深い持ち味、もしかしたらその人が本当に表現したかった深層のサウンドは、こういったアルバムの中にこそあるんだと思います。

それこそ『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』を聴いて

「うわぁ!何だこりゃ!!コルトレーンってこんなヤバい音楽やってたんだ!こんなんパンクですわ、ぬはっ!!」(←アホ)と、すっかり鼻息を荒くしたハタチそこらのチンピラだったアタシが、池袋のWAVE(懐かしいね)のアナログコーナーに走って買った2枚目のコルトレーンのレコードがコレ。

そん時も確かギラギラ暑い夏の時期で、朝も昼も夜も「ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン」と「カルテット・プレイズ」をターンテーブルに交互に乗せてききまくっておりました。

ムシ暑い部屋の中で、汗をダラダラかきながら「よし聴くぞ!」と気合いを入れて聴いてたのが「アゲイン」の方で、意識せずムードに浸るために頻繁に流してたのは、実は「プレイズ」の方だったんですよね。何というか「聴こう」と構えなくても針を落としてレコードを回してさえおれば、自然と音が入ってくる。

そして厚さと疲れにいい感じにヤラレた心身を休めるために部屋の片隅に腰を下ろし、タバコふかしながらボーッとする時、ひたすらダークで重たいはずのこのアルバムに入ってる楽曲、コルトレーン・カルテットの演奏から繰り出されるフレーズのひとつひとつが、不思議な心地良さを伴って、体から心の奥底の方(多分)に、ジワジワと入り込んできて、そこに優しく拡がっていった感覚を、今でも思い出しますし、今でもこのアルバムを聴くとその感覚がじわっと蘇ってきます。




【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts,ss)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
アート・デイヴィス(b,B)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.チム・チム・チェリー
2.ブラジリア
3.ネイチャー・ボーイ
4.ソング・オブ・プレイス


まぁ、そんなことを言っても、所詮は”個人の感想”です。

聴いてどう感じるかは、これからこの作品に出会う皆様方お一人お一人に体験して頂くことにして、ちゃんとした説明を致します。

実はこのアルバムには”チム・チム・チェリー”というもうひとつの呼び名があって、それは何でかと言いますと、はい、一曲目に収録されておるからなんですね。

”チム・チム・チェリー”といえば、ミュージカル「メリー・ポピンズ」の歌です。それ以前に

チムチムニー、チムチムニー、チムチームチェリー、わたしーはーえんとーつ そうじーやーさん♪


と、皆さん保育園や幼稚園なんかで唄った経験はあるんじゃないんでしょうか。そう、我が国ではそんな感じで子供の歌う童謡として有名です。

そんな、みんなが知っているマイナー調の3拍子の曲、これをコルトレーンが最高にカッコいいジャズ・ワルツにしてるんです。ソプラノ・サックスを最初は切々と哀愁のあるメロディーを慈しむように、でもアドリブに入ると指の速度を早め、狂おしさに青白い炎を燃やしながら。

コルトレーンの伝記本とかジャズのガイドブックの類では、コルトレーン最大のヒット曲となった「マイ・フェイバリット・シングス」みたいなミュージカル・ナンバーで、3拍子で、しかも同じようにソプラノ・サックスを吹いて、再びヒットを飛ばそうと目論んだレーベル側が、コルトレーンにカヴァーさせたと書いてありまして、確かにそんな背景はレコーディング時にはあったと思うんですが、もうこの時期の”コルトレーン・ミュージック”を4人で揺るぎない領域にまで作り上げたコルトレーン・カルテットには、ヒットとか有名曲とかそういうのはどうでもいいことで、スタンダードをいかに自分達の世界の奥深くで鳴らしてしまうか、それだけを激しく思考しながら、別世界の”チム・チム・チェリー”がここに仕上がっております。

同じことは、3曲目の「ネイチャー・ボーイ」にもいえます。

ナット・キング・コールのヒット曲として知られ、サラ・ヴォーン、スタン・ゲッツ、マイルス・デイヴィスなどなど、多くの有名ミュージシャンがカヴァーしている、大スタンダード。

原曲は美しいバラードですが、これも主たるメロディーがマイナースケールで出来ておりまして、例えばナット・キング・コールなんかのヴァージョンは「ちょっと物悲しい」くらいの悲しさを、コルトレーンはもうどこまでも沈み込む壮大なスケールの鎮魂歌のように仕上げていて、逆にアタシは何年か後にナット・キング・コールのオリジナルを聴いて「え?こんな感じだったの」とぶったまげたほど。

有名ミュージカルナンバーと、誰もが知る歌モノの有名バラードを入れたアルバムなのに、キャッチ―に仕上がるはずの曲なのに、ここまで深淵に沈めてしまうコルトレーン、容赦なくかっこいいです。。。

オリジナルの「ブラジリア」「ソング・オブ・プレイス」も、同様に深く沈み込むナンバーであります。

特にエンディングの「ソング・オブ・プレイス」は、ジミー・ギャリソンの長い長いベース・ソロがありまして、これがアルバム全体にそれまで漂っていた静かな熱気を吸いこむブラックホールのようで、で、実際ギャリソンの重厚な静寂に収縮されたカルテットのエネルギーが、3分30秒辺りで低音をゆっくりと響かせながら登場してくるコルトレーンの、まるで暗闇に流れ出すマグマのようなテナーで、これまた重く響き渡る。

アルバム全体的に重く、最後までドカーン!と炸裂する場面はないんですが、とてつもないエネルギーが煮立ってることを、この「ソング・オブ・プレイス」のコルトレーンが出てきて吹いている場面でいつも感じます。


深く、重く、・・・と何度も言ってますが、これこそがコルトレーンです。






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2017年08月21日

ジョン・コルトレーン ザ・ラスト・トレーン

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ジョン・コルトレーン/ザ・ラスト・トレーン

(Prestige)


よく言われる話ですが、これはコルトレーンのラスト・アルバムではありません。

で、これもよく言われる話ですが、このアルバムでコルトレーンはソプラノ・サックスを吹いておりません。

えぇと、簡単に説明しますと、1950年代後半に、コルトレーンが当時所属していたPrestigeというレーベルでレコーディングしていて、そのまんまうやむやになっていた音源を集め、1965年にあたかも新作のようにリリースしたアルバムです。

その頃コルトレーンは、Impulse!に所属して、ちょうどマッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズとの黄金のカルテットで『至上の愛』などをリリースしていた時で、つまり人気実力共にひとつのピークを迎えていた時期ですね。

Prestigeというレコード会社は、50年代60年代のジャズ名盤を多く残してくれたレーベルなんですが、リアルタイムではニューヨークの雑居ビルの一角に狭いオフィスを持っているだけの、弱小インディーレーベルに過ぎなかったわけです。

「どうも最近シノギが厳しいのぅ。昔は小遣いもらえるちゅうてウチに頭下げてレコーディングさせてくれゆうとった連中が今はギャラはいくらで印税はどうのとかうるさくてやれんわい。それにコルトレーンのガキちゅうたら、インパルスに行ってから人気者になりよった・・・。おぅ?コルトレーン??。・・・そうじゃ!まだ発売しとらんコルトレーンの音源をのぅ、新作みたいにして売ったるんじゃ。結構あるじゃろう、それを全部レコードにして売っちゃれ、あぁ、売り上げちゃれい!」

と、まるで仁義なき経営理念にのっとって、あざとく稼ごうとしとった訳です。

で、Prestigeからはコルトレーンとの契約がとっくに切れていたにも関わらず、人気に便乗しての未発表音源が、あたかも新作のようにリリースされてた時期がありまして、この『ラスト・トレーン』もそんな一枚です。

とりあえず契約当時吹いてなかったソプラノを吹いている写真を使って”いかにも”な感じに仕上げてるところに、このレーベルのドス黒い商魂みたいなのを感じて、アタシは結構好きです。

ついでに言うとラストトレーンっていういう意味深なタイトルも、コルトレーンのラストアルバムでは当然なくて、Prestigeでレコーディングした最後のセッションという訳でもなくて

「はい、これがウチから出る最後のコルトレーンです。ウチにはもうこれでコルトレーンの音源は何も残っておりません。最終大サービスですよー!」

という、実にレーベルな都合で付けただけっていうオチも、アタシは結構嫌いじゃないです。




【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts)
ドナルド・バード(tp,@C)
レッド・ガーランド(p,@BC)
アール・メイ(b,A)
ポール・チェンバース(b,@BC)
アート・テイラー(ds,AB)
ルイス・ヘイズ(ds,@C)

【収録曲】
1.ラヴァー
2.スロウトレーン
3.バイ・ザ・ナンバーズ
4.降っても晴れても



そんな胡散臭い経緯でリリースされたこのアルバムではありますが、中身は実にしっかりした、”1950年代末の急成長期のコルトレーン”の姿をリアルに捉えたものであり、作品としても素晴らしくバランスの良いものであります。

コルトレーンにとってはマイルス・バンドを一旦卒業して、セロニアス・モンクのところでの修行期間のうちに、独自の突き抜けたアドリブ技法を身に付けた1957年から58年という時期の3つのセッションを集めたもので、アップ・テンポとミディアム・ナンバーで溌剌とした爽快な演奏が楽しめます。

「ラヴァー」というバラードっぽいタイトルが付いていながら、細かい音符を空間にうわぁ!っと敷き詰めていく”シーツ・オブ・サウンド”の迫力とスピード感に圧倒されるオープニングから、ミディアム・テンポのブルージーな展開の中でベースとドラムだけを従えてグングン加速してゆく「スロウトレーン」、長年コンビを組んできたレッド・ガーランドのやるせなくもエレガントなピアノとの、もう”魂のやりとり”と言ってもいい至福の掛け合いがグッとくる「バイ・ザ・ナンバーズ」、そしてこれも気合いの入ったミディアム・テンポの中でコルトレーンの吹きまくりとガーランドの後ろ髪引かれるように儚いソロが絵画のように美しい対比で輝く「降っても晴れても」。

たった4曲しか収録されていないのに、いずれもたっぷり時間をかけて濃い演奏がなされ、かつドラマチック極まりない(特に後半)ので、ガツンと味わった気分になれます。

コルトレーンのプレイに関しては、この時期特有の”モダン・ジャズの領域にギリギリとどまってる感じ”が凄くあって、いまにもアウトしてどこかへすっ飛んで行きそうなほどに勢いのあるアドリブを、モダン・ジャズの象徴みたいなレッド・ガーランドのピアノやドナルド・バードのトランペットが必死で現世に留めているような、そんな緊迫したやりとりを見ているかのようでもあります。

いや、全体的な空気が、ジャズとして完璧なほど落ち着いていて、アドリブのフレーズひとつにしても、ソロからソロに移るほんの一瞬の絶妙な間ひとつにしても、全てがしっくりきた大人の演奏なだけに、余計に表には出ていないせめぎ合いみたいなものを感じます。これもまた名盤です。


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2017年08月15日

ニューシング・アット・ニューポート

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ジョン・コルトレーン&アーチー・シェップ/ニューシング・アット・ニューポート
(Impuslse!/ユニバーサル)


さてさて、昨日はコルトレーンの関係者の一人としてアーチー・シェップという兄さんがとても重要なんだよということをお話ししました。

1960年代は、コルトレーンの影響を受けたサックス奏者が次々出てくる中で、実にシェップという人は、自らの持つ、前衛と伝統の深い部分を掛け合わせた個性でもって、コルトレーンのスタイルに真っ向から挑んだ。

と、同時に持ち前の頭の良さと売り込み能力で、コルトレーンとも、所属するインパルスレーベルとも密接な関係を築き上げることに成功した人であり、アタシはこの人のプレイヤーとしての激烈で猪突猛進なスタイルと、冷静で分析力のあるプロの音楽家としての顔とのギャップが非常に面白いと思いつつ、そのどこまで人間臭いキャラクターにぞっこん惚れております。

はい、今日も大コルトレーン祭の一環で、コルトレーンのアルバムを紹介するんですけどね、今日ご紹介するのは、そんなシェップ兄さんとコルトレーンとが連名でリリースしたアルバム『ニューシング・アット・ニューポート』であります。



【パーソネル】
(AB)
ジョン・コルトレーン (ts,ss)
マッコイ・タイナー (p)
ジミー・ギャリソン (b)
エルヴィン・ジョーンズ (ds)

(D〜H)
アーチー・シェップ (ts)
ボビー・ハッチャーソン (vib)
パール・フィリップス (b)
ジョー・チェンバース(ds)


【収録曲】
1.ノーマン・オコナー神父による紹介
2.ワン・ダウン、ワン・アップ
3.マイ・フェイヴァリット・シングス
4.ビリー・テイラーによる紹介
5.ジンジャーブレッド・ボーイ
6.コール・ミー・バイ・マイ・ライトフル・ネーム
7.スキャッグ
8.ルーファス
9.ル・マタン・デ・ノワール

アメリカの名物ジャズフェスとして、古くから”ニューポート・ジャズ・フェスティバル”というのがございます。

1950年代に制作された映画『真夏の夜』のジャズでもおなじみの、この一大フェスティバルは、とにかくジャズからブルースから一流のミュージシャン達を集め、毎年大いに盛り上がったフェスの花形でありますが、1960年代も半ばになってくると、それまでのスウィングやモダン・ジャズ勢に加えて、前衛とかフリーとか言われていた、どちらかというと避暑地での優雅な野外コンサートにはそぐわないコワモテの新しい表現の担い手達もこのステージに出てくるようになってきます。

つまりそれまでアンダーグラウンドな、一部のミュージシャンや芸術愛好家しか評価しなかった前衛的なジャズが、ようやく社会的な評価を(それでもまだまだ賛否両論ではありましたが)得て注目されてきたんですね。

で、この流れの中心にいたのはやっぱりコルトレーンです。

コルトレーン本人は「とにかく新しい音楽を創造するんだ」という、まっすぐに内側を向いた気持ちでただ音楽的な実験や冒険をあれこれやっていただけに過ぎなかったんですが、やはり

「あのマイルス・デイヴィスのバンド(つまりモダン・ジャズの本流)にいたコルトレーンが、自分のバンドを組んでからどんどん聴いたこともないような音楽を作ってくる」

と、ジャズファンの間で話題になっておったんです。



「コルトレーンのやってるような、あんな激しくてどこか根源的な衝動に溢れた音楽を一体何と言えばいいのだろう」

「そりゃあお前さん、聴いたこともないようなジャズだからニュー・ジャズって言うんだよ」

「なるほどそうか、ニュージャズか。そういやちょいと前からオーネット・コールマンとかセシル・テイラーとかも、何だかよくわかんない実験的なジャズをやってたね」

「あぁ、アイツらの音楽もニュージャズだろうな」

「お前さん方ちょっと待ってくれ、コルトレーンとかテイラーとか、コルトレーンのやってるジャズは音楽理論の約束事から解放された自由な音楽だぜ。俺は彼らのやっているジャズはそういう意味で”フリー・ジャズ”って呼びたいね」

「なるほどフリージャズか、そいつはいいね。でも最初っから何かハズレてる感じのするオーネットやセシル・テイラーと違って、コルトレーンのはどこか違うんじゃないか?アドリブで盛り上がっていくうちにスケールアウトしたりはするけど、演奏そのものはアブストラクトじゃない、リズムもエルヴィン・ジョーンズがしっかりした4ビート叩いてるしマッコイ・タイナーのピアノだって激しいがメロディアスだ。だからフリージャズとまではいかないんじゃないか?」

「確かにそれは言えてる、でも最近はコルトレーンのいるインパルス・レコードから、彼と親しい若手のレコードがガンガンリリースされてんだよ。彼らはコルトレーンの影響を受けたとか言われてるんだけどもっと過激だ。トレーンをニュージャズって言うんなら連中の音楽はもっとハチャメチャなフリージャズだよなぁ」


さぁさぁこのアルバムはそんな”ニュージャズだ!””フリーだ!”と盛り上がる世間の声も大きくなっていた1966年のニューポートでのライヴ・アルバムでございます。

タイトルの「ニューシング」といえば、インパルスレコードの旗印であり「こんなに新しいジャズをニューポートのステージでやってんだぞ、どうだ!」という、並みならぬ勢いが伺えますな。

当然ながら”ニューシング”の筆頭であるコルトレーンのグループと、最注目の若手として、自分のグループを率いて暴れていたアーチー・シェップが、このレコードの主役として選ばれ、それぞれの演奏が収録されております。つまりカップリング盤。

余談ですが最初にこのレコードを見た時は「おぉぉ、コルトレーンとシェップの共演ライヴがあるんだ、すげぇ、ウホ!あのアセンションのライヴ盤みたいな感じかぁ!?」と、ウホウホ興奮したのですが、解散寸前とはいえマッコイ、ギャリソン、エルヴィンのカルテットと、アーチー・シェップのグループはキッチリと別々でありまして、しかも収録曲のほとんどはシェップ・グループのもの。


オリジナルのレコード盤は、コルトレーンの演奏は「ワン・ダウン・ワン・アップ」一曲のみ、残り4曲はシェップで「えぇぇ!?」と思いましたが、実にこの「ワン・ダウン・ワン・アップ」がほとばしる熱演で実にエグいエグい(!)。ミディアム・テンポに非常にシンプルなリフが繰り返されるオープニングから、まるで怒気を孕んだかのようなエルヴィンのシンバルが炸裂して、そこからなだれ込むマッコイの鍵盤ガキンガッキンの打撃ソロ、これが6分50秒ですよ、6分50秒!で、コルトレーンがぐわぁぁーっと登場して吹きまくる、それはもうまるで絶叫のような凄まじいソロ。これで後半およそ6分間を一気に蹂躙して、あっという間の12分40秒がおわり。

この日のステージそのものが、コルトレーン・カルテットは2曲30分しかやっていないと本には書いてありましたが、このエネルギー、この緊張感、現場は物凄い密度の30分だったと思います。

続くシェップは、ボビー・ハッチャーソンのヴィブラフォンを加えた、ピアノなしの変則カルテットで、コチラも狂暴。遠慮というものを知らないシェップの「バギャ!ボギョ!」と雄叫びを上げるテナーの強烈な破壊力とむせかえるようなブルージーさと、やけにクールでひんやりした質感のボビー・ハッチャーソンのヴィブラフォンという正反対のサウンド・キャラクターが、激烈な演奏の中に不思議な緊張感と浮遊感がないまぜになった独特の空気を作り出し、コルトレーンのグループとは全く違う磁場のカオスでありますね。

コルトレーン単独の作品ではありませんが、それでもどちらのグループも熱演中の熱演で、とにかく余計なことを考えさせずに楽しませてくれる素晴らしいライヴ・アルバムです。特にスタジオ盤ではあれこれ趣向を凝らすシェップが、やっぱりライヴだと考えていたことすべてをかなぐり捨てて演奏の鬼と化すテナー・プレイはカッコイイですね。”ニューシング”の旗のもと、この時代の若手が、いかにコルトレーンを意識して、それを越えようと必死になっていたかが迫力と共に伝わってきます。





『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』

サウンズパル店主高良俊礼の個人ブログ
http://ameblo.jp/soundspal/

posted by サウンズパル at 12:25| Comment(0) | 大コルトレーン祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする