ディープなコラム こちらにも書いてます♪

2017年08月12日

デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン

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デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン
(Impulse!/ユニバーサル)


2000年年代以降「リスペクト」という言葉を若い人達が使うようになって、アタシは凄く嬉しく思っております。

リスペクトっていえば、尊敬とか敬意を払うということですね。はい、尊敬とか敬意とかいうのは、人間関係の根幹であり、最も深い部分に美しく根ざすものだと思うんです。

家族や友達など、近しい間柄での信頼に根差したリスペクトも素晴らしいですが、やっぱりアタシは、年齢とか趣味とかものの考え方とかが違っても、どこか尊敬できるものを他人に感じる「いや、あの人とは考え方違うけど、正直凄い人だと思う」とかいうのこそ、大いなる敬意、つまりリスペクトだと思いますね。

さてここに、そんな”リスペクト”に満ち溢れた素晴らしい一枚のアルバムがあります。

タイトルは『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』。

はい、戦前からジャズの代表的なビッグバンド・リーダー、ピアニストと呼ばれ、ずっと人気と尊敬を一身に集めてきたデューク・エリントンと、戦後60年代以降の”新しいジャズ”のリーダー格として売り出し中だったコルトレーンとが、年齢やスタイルの違いを越えて、美しい音楽を魂と魂の大いなる交感で作り上げた素晴らしい作品です。

録音年月日の1962年9月26日といえば、コルトレーンが丁度『バラード』を録音していた時期ですね。つまりこのアルバムはレーベル側の

「ジョン、アグレッシブないい感じのアルバムは結構出したから、そろそろ落ち着いて聴けるバラードか何かでも作ろうか。古くからのジャズファンにも”お、アイツはちゃんとしとる”って思われるようなジャズアルバムをさ」

といった意向に沿ったものと思われます。

レコーディングはたった一日だけ、しかしあのエリントン(当たり前ですが当時どのミュージシャンからも尊敬されていました)が来るとなれば、コルトレーンのテンションはかなり上がったでしょう。

エリントンにしてみれば

「あぁ、そういえばインパルスのボブ・シールがスタジオに来てくれって言ってたな。誰のレコーディングだったか・・・。あぁそうそう、ジョン・コルトレーンとかいう子だよ。私はよく知らないが、ジョニー(ホッジス)のバンドに一時いた若い子らしいね」

ぐらいのもんだったと思いますが、エリントンの偉いところは、相手が若造だろうがよく知らない相手であろうが、「あ、コイツの音楽は本気だな」と分かればスッと懐に入って行って、一人のミュージシャンとしてそれに応えるところであります。




【パーソネル】
デューク・エリントン(p)
ジョン・コルトレーン(ts,ss)
アーロン・ベル(b)
ジミー・ギャリソン(b)
サム・ウッドヤード(ds)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.イン・ア・センチメンタル・ムード
2.テイク・ザ・コルトレーン
3.ビッグ・ニック
4.スティーヴィー
5.マイ・リトル・ブラウン・ブック
6.アンジェリカ
7.ザ・フィーリング・オブ・ジャズ


実際に、このアルバムのセッションも、ジャケットが表すように緊張しているコルトレーンのところにェリントンがスッと寄って行って

「大丈夫だよ、君は君のスタイルでやればよい。君はサックス奏者だろう?なら私は君のプレイが映えるような伴奏をしよう」

と、優しくささやきながら行っているかのようであります。

アルバムにはのっけから名演が入っておりまして、美しいピアノが心地良い静かな時間の流れを導き、それに呼応するテナーが上質な歌を紡いでゆく「イン・ア・センチメンタル・ムード」。もうこのアルバムがどんなアルバム?って問いには「これをお聴きなさい」で全て答えられるぐらいの美しいバラードです。

この曲はエリントンが、看板ソロイストであったジョニー・ホッジスの、甘くとろけるようなアルトをフィーチャーした演奏を多く残した、いわばエリントン版「サックスのための協奏曲」とでも言える曲です。

しかも、そのアルト奏者のジョニー・ホッジスというのは、サックスを始めたばかりの頃のコルトレーンにとってはもう神様みたいな憧れのアイドル。で、目の前にいるのはホッジス通り越してデューク・エリントン。

そのデュークが「イン・ア・センチメンタル・ムードをやろうか。君、吹いてごらん」とニコニコして言ってる。普通に考えて何この神シュチュエーション!という事態でしょう。

で、ここからが”リスペクト”です。

コルトレーン、恐らくはエリントンやホッジスに対する、もうほぼ万感に近い思いをテナーに込めて吹いてます。当たり前ですがいくらホッジスに憧れてて、エリントンに並ならぬ敬愛の念を持っているからといって、まんまホッジスのようなスタイルではやらない。それやるとかえって失礼だということを心得ているコルトレーン。彼のテナーから芳香と共に放たれるのは、繊細でシャープな輪郭の、まぎれもなくコルトレーンのトーンとメロディです。

2曲目以降も、終始リラックスした極上の雰囲気の中、両者互いに敬意を払いながら、絶妙に自分のスタイルを織り交ぜながら演奏をしております。

コルトレーンがソロを吹いている間はバッキングに徹して、しかも絶妙な”間”と”空間”をそこに敷いてゆくエリントンのピアノ、本当に素晴らしいですね。そのエリントンの”間”を察知したコルトレーンも、どの曲でも吹き過ぎず、得意の”シーツ・オブ・サウンド”奏法の核の部分だけを抽出したような、中身の濃い演奏で聴かせてくれます。

レコーディングの最中、緊張でうまく表現できないと悩んだコルトレーンは「もう一度録音していいですか」と、切羽詰まった感じで言ったそうですが、エリントンは「どうしてもう一度録るんだい?一度やって素晴らしい演奏が録れた。それで十分じゃないか」と答え、コルトレーンは自分の一番痛いところを突かれた上で、ジャズの極意を諭されたような気持になったといいます。

たった一回のセッション、全曲ワン・テイク。そしてコルトレーンのことをよく知らないエリントン。もし、何度かレコーディングを重ねたら、コルトレーンにも”激情スイッチ”が入ってガンガンに吹きまくる展開があったでしょうし、それに応えたエリントンが「マネー・ジャングル」で見せたような本気を出して、コルトレーンをねじ伏せる瞬間もあったかも分かりません。

でも、アタシはこのアルバムに関しては、この距離感、このお互いに敬意を払い合いながら音楽的な”優しさ”の部分を絶妙な間合いで溶け合わせた演奏こそが至福だと思います。









posted by サウンズパル at 11:54| Comment(0) | 大コルトレーン祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月07日

ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン

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ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン
(Impulse!/ユニバーサル)


コルトレーンを聴いていると、どんな時期のどんな演奏でも

「あぁ、やっぱり”うた”だなぁ」

と、深く思います。

特に亡くなる直前の激烈な演奏は、やもすると原曲をけちょんけちょんに破壊して、やりたい放題のめちゃくちゃをやっているかのように聞こえる人もおるでしょう。

実際アタシも晩年のコルトレーンの演奏は、特にコルトレーンとファラオの凄まじい絶叫合戦で得られる本能的なカタルシスを求めて聴いております。

でも、ガーーー!と激しい演奏のふとした瞬間に「あ、今のメロディ・・・」と、死ぬほど美しくて儚いものあ、一瞬表れてはまたすぐに、音のガレキの洪水の中に消えていってしまうんです。

この切なさですよ。

気が付くと、死ぬほど激しい演奏の中に、そんな切なさを必死で追い求めるようにコルトレーンを聴きまくり、アルバムを集めまくっている自分がおりました。

あのですね

ジャズって究極に言えば切ない音楽。

その切なさは、コルトレーンだろうがマイルス・デイヴィスだろうが、ルイ・アームストロングだろうが、とにかくジャズマンと呼ばれる人達が、色んな形で持っている共通の影みたいなもの。

モダン・ジャズのノリノリの曲でも、スウィングの陽気な演奏でも、フリー・ジャズの激しい演奏でも、ふと気がつくと

「あ、今切ないのが通り過ぎていった」

という感覚にヒリッとすることってあるんです。

その切なさの正体を、アタシは未だ”これ!”と定義することはできません。

ミュージシャン個人の波乱万丈の人生から抜け出して、演奏に宿った何かかも知れませんし、ジャズという音楽が生まれた時にどこかからやってきて棲みついたものかも知れません(たとえばブルース)。

アタシは思います。コルトレーンという人は、どこかでその”切なさ”に憑り付かれ、気が付けば夢中になって、それこそ様式も何もかも投げ捨ててそれを追うためにまっしぐらに走って行った人なんじゃないかと。

僅か10年ちょっとのソロ・アーティストとしてのキャリアの中で、いくら時代がそうだったとはいえ、余りにもめまぐるしくスタイルを変えておりますし、アタシら素人がたとえば50年代のモダン・ジャズなコルトレーン聴いて

「かっけー!この路線でずっとやってても全然歴史に名前残るー!」

と、思っても、当のコルトレーンに”これでいい”という文字はなかった。

音を聴いている限りコルトレーンには、売れるため、満足のため、或いは名声のために音楽やっている感じがこれっぽっちもしない。

特に自分のカルテットを組んだ1961年以降は、そんなコルトレーンの”まっしぐら”に拍車がかかっておるようで、それこそそのサウンドには、聴いてる方も夢中で必死で喰らい付くように聴いてしまう。で、その激しさや荘厳さでたくさんデコレートされた演奏の中から立ち上る「あ、切ない・・・」と聴いてまたコルトレーンが聴きたくなる。

無限ループしそうなので、コルトレーンの、その切ない切ない”うた”に話を戻しましょう。

実は自分のバンドを結成して、続けざまに激しくディープで、ある意味ドロドロなアルバムをリリースしていたコルトレーンが、ふと原点に戻った”うた”をストレートに聴かせてくれるアルバムをまとめてレコーディングしていた時期がありました。

1962年に録音された『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、ジャズ名盤としても有名な『バラード』、そして翌1963年にヴォーカリストのジョニー・ハートマンを迎えて作られた『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』であります。





【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts)
ジョニー・ハートマン(vo)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル
2.テディケイテッド・トゥ・ユー
3.マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ
4.ラッシュ・ライフ
5.ユー・アー・トゥー・ビューティフル
6.オータム・セレナーデ

さあこれからガンガン激しい方向へ進むぜ!

と、気力がみなぎっていたコルトレーンが、何故急に、しかも集中的にオーソドックスなジャズのスタイルで、バラード・アルバムを3枚もレコーディングしたのでしょう。

それについては余りに自分の世界に突っ走りがちなコルトレーンを、レコード会社側が心配して

「そういうのは後でたくさん録音させたげるから、ここらでひとつ一般の人にも聴きやすいアルバムを作らないか?」

と提案したとか、コルトレーンのマウスピースの調子が悪くて、激しい演奏が出来なかったからとか(『バラード』の時)色々言われておりますが、アタシは恐らく前者じゃないかと思います。

とにかく、コルトレーンの音楽をまずは知らない人にも多く聴いてもらうために、有名スタンダードばかりを集めた聴き易いアルバムを作ったり、ジャズファンやミュージシャンの誰もが敬愛するデューク・エリントンと共演させたり、「黒いシナトラ」と呼ばれ、耳のうるさいファンや批評家連からも高い評価を得ていた、ムーディーな歌謡を得意とするジョニー・ハートマンと組ませたり、とにかく試行錯誤してアルバム3つも作ったImpulse!プロデューサー、ボブ・シールの苦労はどれほどだったろうと思いますが、コルトレーンが素晴らしいのは、このいずれのアルバムでも、不満を感じさせることなく、素直な本気を切々と、スタンダードの美しい調べに乗せて聴かせてくれることであります。

ジョニー・ハートマンとの共演は、よくある”ヴォーカリストの伴奏をコルトレーンがする”というのではなくて、歌とサックスが完全に対等に、演奏の中で寄り添い合って、そしてハートマンのなめらかな憂いに満ちたバリトン・ヴォイスが、コルトレーンの中〜高音域をやるせなく行き来するテナーと、この上なく美しいハーモニーを奏でております。

このアルバムを聴くまでは、恥ずかしながらジョニー・ハートマンのことは知らず、あろうことか男性ジャズ・ヴォーカルはどうも親父臭くて苦手だとさえ思ってました。

が、やっぱりスタイルとかは関係ないんですね。

コルトレーンはインタビューで

「ジョニー・ハートマンという、全然すたるの違うヴォーカリストと共演したわけだが、彼の印象は?」

と訊かれ、一言

「バリトンだ」

とだけ答えたそうですが、コルトレーンが恐らく求める”切なさ”を、この人の声は持っている。たとえば「When I 〜」とハートマンが一節歌ううだけで、その場の空気は何か深い紫色に染められてからセピアに変わるみたいな、そんな色彩を感じさせるものです。

ハートマンの歌を受けて、一音一音丁寧に、噛み締めるように出てくるテナーのフレーズは、言葉を追いかけて飛んで行っては消えてゆく生き物のようであり、それ聴くだけでもコルトレーンが、ハートマンの声に言葉にならない程に深い何かを感じ、それに呼応していったのが分かります。

それこそインタビューで「どうだった?」と訊かれて「はいはい、さようでございますね、えーこれこれこうでした」って答えられるようじゃ全然感情移入した演奏じゃない。だからコルトレーンはハートマンの声を追っていくうちに夢中になって自我がとろける快感に浸っていたんじゃないでしょうかね。

どの曲もスローテンポで、や、これはもう曲がどうとかそういう類のものではなく、ただひたすら流して切なさに浸りながら、自然と遠い目になるためのアルバムです。もう何十回、何百回聴いてますが、このアルバムに終始ゆんわりただよっている、優しくもヒリヒリした切なさの正体を上手く言い表せる言葉を私はまだ持っておりません。







(名盤『バラード』はコチラ↓ やっぱり2枚1組で聴いてほしいのです)




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2017年08月05日

ローランド・カークのコルトレーンを聴け!

今年の『大コルトレーン祭』も、おかげさまで盛況です。

え?「ブログにダラダラ書いてるだけなのに盛況も何もないだろう」ですって?

いや、はい、まぁアタシ一人で盛り上がってもいるのですが、記事中に貼ってあるアマゾンの商品リンク、これでですね、コルトレーン買ってくれる人が去年よりいらっしゃるんですよ。

このリンクはいわゆるアフィリエイトといいまして、このリンクからアマゾンに飛んでお買いものをすれば、アタシの方に「これが売れたよー」と、通知が来る仕組みでありまして、そして誰かがこのブログ経由で買い物をしてくれたら(紹介しているものでなくても)、アタシにいくらかの小銭が入る仕組みになっております。

そのいくらかの小銭は、コツコツ貯めていつかお店を再開しようと目論んでおりますので、どうか皆さん、宜しくお願いします。

それはそうと、アタシが『大コルトレーン祭』をこうやってブログでやって、それをツイッターとかフェイスブックに「更新したよー」と投稿しますと、フォロワーさん達がリツイートしてくれたり、お気に入りしてくれたり、えぇ、それだけでも嬉しいんですが、与太文を読んでくださった上でコルトレーンについてのアツい想いを語ってくださる方々との会話、これが嬉しい。

で、コルトレーンが好きな方というのは、音楽や社会のことにとても真摯に目を向けて考察されている方が多いですよね。

コルトレーンの音楽も、彼自身の音楽やあらゆる出来事に対する真摯な姿勢から出来ております。そう考えるとやはりアタシは、この世の中にコルトレーンの音楽を紹介しつづけることで、真摯と誠実の種を蒔きたいな、いや、蒔かなきゃならないな、全然影響力のないただの田舎者ではありますが、それでもこのブログをきっかけにコルトレーンを知った人がいて、その人がコルトレーンの音楽と出会ったことがきっかけで、人生豊かにしてくれたり、周囲に良い影響を与えることが出来るとか、そういう風になったらきっと世の中平和ではないですか。

や、コルトレーンに限らず、良い音楽にはそういうユルく深い影響力が、政治とか宗教とかそういうものよりも全然あると思いますんで、えぇ、ブログ頑張ります!


というわけで今日の大コルトレーン祭なんですが、今日はちょいと趣向を変えまして

「コルトレーンの曲がこんなにカッコ良くカヴァーされてるよ♪」

というのをご紹介しましょう。

コルトレーンは、もちろんジャズの先輩達からも

「お、アイツやってるな」

と、一目置かれる存在でありましたが、それ以上に後輩達から「兄貴、兄貴」と(?)ものすごく慕われた人でありました。

性格的には一見寡黙でストイック、友達とワイワイやってると思ったら、サックス持って別室で黙々と練習して戻ってこないとか、そういう神秘的なカリスマを持っていると思いきや、プライベートで付き合う仲になると、案外子供みたいにカワイイところがあったり、実は抜けてる部分も結構あったり・・・(^^)

そんな人、慕われるでしょうね。

で、コルトレーンの周囲には、新しい音楽を作ってやろう!という熱情に燃えた、ちょっと変わった若者達が、60年代以降チラホラと出入りするようになります。

その中の一人がローランド・カーク↓


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見た目バケモノですが、実際にバケモノです(汗)

カークはコルトレーンより10歳ぐらい年下ですが、コルトレーンがマイルス・バンドに加入したその頃に、19歳で才能を発揮してブイブイ言わせてましたから、どちらかというと同期みたいな気軽な間柄だったんですね。

カークは盲目というハンディキャップがありましたが、その分非常に勉強家でありました。

特にブルースやR&Bなど、ルーツ・ミュージックへの探究心が凄いカークとコルトレーンは若い頃から気が合って、よくツルんでたそうです。

1963年のある日、西海岸のクラブで演奏していたコルトレーン・カルテット。

その凄まじい演奏が盛り上がりに盛り上がり、客席も巻き込んで熱気ムンムンだったその時、客席にたまたまいたローランド・カークが何の前触れもなくステージに乱入。

コルトレーンもメンバーも

「お、カークやないけ♪」

と、喜んで熱演で迎えました。

コルトレーンが、この時の必殺技だった長い長い長いソロを繰り広げると、カークはニヤニヤして更に長い長い長い長いソロで応報。

しかも、カークのロング・ソロは、彼独特の循環呼吸という技を使っての、音がずーっと途切れない奏法です。

コルトレーンびっくりして、楽屋で

「おい、あんなすげぇノン・ブレスのソロ、お前どうやってんの?」

と訊いたところ

(きたよコルトレーンの”音楽質問攻め”)

と、ニヤリほくそ笑んだカーク

「あぁ、オレは目が見えねぇから生まれつきこういう特殊能力が備わってんのよ」

と答えて、二人とも大爆笑したと云います。

仲良しですね、2人とも実にカワイイ。

そんな仲良しの二人でしたが、レコードでの共演はついに行われませんでした。

60年代半ば以降、どんどん先鋭化してへヴィな方向へ突き進んだコルトレーンと、ソウルに接近し、よりポップで大衆音楽なものを指向したカークとでは、元から進むべき道は違っていたのかも知れません。

でもカークは己の内側の深いところを真摯に突き進むコルトレーンを尊敬しておりました。

そんなカークの、コルトレーンへのリスペクトが刻まれているレコードが『ヴォランティアード・スレイブリ』







コルトレーンが亡くなった翌年の1968年に出演したニューポート・ジャズ・フェスティヴバルでのライヴが後半に収録されているのですが、ここに「ア・トリビュート・トゥ・ジョン・コルトレーン」というトラックがありまして、これが

「ラッシュ・ライフ」
「アフロ・ブルー」
「ベッシーズ・ブルース」

という、コルトレーン初期から晩年までの愛奏曲のメドレーなんです。

これがもう名演!

バラードから始まって勇ましさの極みの「アフロ・ブルー」もう何ですかこれ、カークはソプラノ・サックスではなく、マンゼロ(サクセロ)という1920年代に少量生産された珍しい楽器で吹いております。

この音はソプラノと同じキーらしいですが、いわゆるソプラノ・サックスより何だか原始的な温かみのある音がしますね。強いて言うならモロッコの民俗音楽のジャジューカでベーベー吹かれるチャルメラみたいな、そういう土着っぽい響きあります。

こんなサウンドに、コルトレーンの民俗調マイナーワルツの名曲「アフロ・ブルー」がハマらない訳がありません。

コルトレーンが乗り移ったかのように、無心でバラバラバラー!と細切れフレーズを撃ちまくるカーク、ド肝を抜くほど凄いです。ピアニストのロン・バートンも、最初「誰?」と思いましたが、こちらにもマッコイが憑依しております。

コルトレーン者を自称しておきながらこんなこと言うのも何ですが、アタシはカークのこの演奏を聴いて

「あ、あ、アフロブルーって凄い曲じゃねぇか!ちくしょー、オレは今まで何聴いてたんだ!!」

と思って「ライヴ・アット・バードランド」を、大慌てで聴き直しました。ここだけの話ね(汗)

「アフロ・ブルー」が最高潮に盛り上がってエンディング、わーい。となってきたところに間髪を入れずにスウィングする「ベッシーズ・ブルース」の盛り上がりもまた凄いんですよ。カークといえばソウルやR&Bのカヴァーが大変に素晴らしく、そういう人だとばかり思っていたら、まさかのコルトレーン、しかも本人以上に本人っぽい魂の熱演にもう撃ち抜かれたままですが、コルトレーンもカークも、やっぱり根底に持っている”ブルース”で強烈に繋がってたんだなと思います。

彼らの”ブルース”は形式だけをなぞったものではなくて、もっともっと血の源流みたいなところまで行って吐き出してくるみたいな・・・上手くは言えませんが、もしかしたらこの60年代から70年代のジャズが、あぁ凄いカッコイイなと思えるその一番大事な要素、それが両者の持つ、お飾りじゃない奥底のブルース・負イーリングだと、アタシはしみじみ思います。

そうそう、このアルバムの”コルトレーン”は、後半のメドレーだけじゃなくて、実は前半スタジオ録音での「小さな願い(I Say A Little Prayer)」でも出てきます。

この曲は知る人ぞ知る有名なバカラック・ナンバーですね。でも、アドリブであの「至上の愛」が出てきます。何の前触れもなく、当たり前のようにバカラックの、ポップスの神様みたいな曲の中に、コルトレーンの、ポップスとは一番程遠いと思われてる曲を「え?ポップスだろ?」とぶっこんでくるカーク、やっぱりカッコええですもんね。







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『音のソムリエ 高良俊礼の音楽コラム』


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2017年08月01日

ジョン・コルトレーン ライヴ・アット・バードランド

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ジョン・コルトレーン/ライヴ・アット・バードランド
(Impulse!)

八月に入りました。

「大コルトレーン祭」は、毎年コルトレーンの命日の7月17日から8月の31日まで

「ジョン・コルトレーンという本気の音楽やってた人のアルバムを聴いて、みんなで豊かな音楽ライフを満喫しようぜ」

という、軽い気持ちで始めた企画であります。

店頭でこの祭をやっていた頃は、それこそそれまでコルトレーンなんて聴いたことなかった人や、そもそもジャズにあんまり興味がなかった人とかも

「お、今流れてるこれ誰?かっこいいね」

「ヤバイっす、飛ぶっす!」

と、まぁそれぞれが様々な反応をしてくださってコルトレーンという”一生モノの音楽”を、その時見付けてくれた。

嬉しかったですね、すごく嬉しかったです。

で、アタシが何故、数あるミュージシャンの中から、コルトレーンをこうやってピックアップしているかということなんですが、まず深い理由として、やっぱり世の中のあらゆる音楽という音楽は、それ聴いた人の心を豊かにしたり、様々な事柄について考える深いきっかけになったり、或いはどうにもならない生きづらさみたいなものを感じてる人の痛みや苦しみに寄り添うようなものだなということ。

もちろん他にも素晴らしい音楽は新旧東西問わず無限にありますが、コルトレーンってそこんところ、つまり「あぁ、いい音楽を聴いたなぁ」とか「あぁ、深い音楽を聴いた」とかいう感動を、ある意味で一番分かり易く伝えてくれる人なんじゃないかと思ったんです。

明るく楽しく、憂さ晴らしをしてくれるような音楽ももちろん結構だし、アタシ自身も大好きなんですが、たとえば悲しくてどうしようもない時に聴くコルトレーンの切々としたバラードとか、息を呑むような凄まじい迫力の演奏とか、これ本当に”効く”んですよ。

ジャズがどうとか、そういうことをとりあえず置いといても、コルトレーンの音楽は「何かを訴える音楽」として最高に深いしカッコイイものだと思いますので、もし、このブログを読んでいてコルトレーンなんて知らないという人がおりましたら、アタシはそういう人のためにこそ書いております。どうか何かのはずみででも結構ですのでコルトレーン、聴いてみてくださいね。決して「軽い、つまんない」とは思わせませんので。

はい、ちょいと能書きが長くなりましたが、今日もそんなディープで切実なメッセージに溢れたコルトレーンのアルバムを紹介しましょう。

コルトレーンがマッコイ、ギャリソン、エルヴィンと組んだオリジナル・カルテットが、結成から少し時間を経てチームワークもばっちりになってきた頃の1963年、当時ニューヨークでは名門と呼ばれた老舗ジャズクラブ”バードランド”で行われたライヴを収録した『ライヴ・アット・バードランド』。

実はコルトレーン、この前の年にエリック・ドルフィーもいたクインテットでバードランドに出演していて、この時の演奏を収めたアルバムも↓として後年リリースされましたが



コルトレーンの生前に、所属していたレーベルから出された公式な”バードランドのライヴ盤”といえばコレなんです。

何といっても必殺マイナー調ジャズ・ワルツのスピリチュアルな名曲『アフロ・ブルー』が入ってますし、ソプラノ持った激しいコルトレーンと、テナーで吹かれる甘いだけじゃない深い味わいのバラードが一枚のアルバムで両方じっくり堪能できます。

つまり「コルトレーンってどんな感じ?」という軽い感じのお問合せにも、素晴らしい演奏でズバッとお答えできる、なかなかにスグレた一枚なんです。

この時期のメンバーによる”黄金のカルテット”には、他のバンドにはない、ちょっと聴いただけで「あ、コルトレーンのカルテットの頃のだね」とすぐに分かるハッキリとしたサウンドがありました。

つまり

コルトレーンのテナーとソプラノは鳴り響く太く鋭い音色で、アツくそして凄まじい速さのアドリブを空間に叩き付ける。

マッコイのピアノはマイナー調のスケールを、力の限り鍵盤に打ち込むように放つ展開と、右手でハッとするような美しいフレーズを転がすように奏でる”押し”と”引き”で聴く人の心をガンガン揺さぶってくる。

ギャリソンのベースは、屋台骨としてアンサンブルに必要なルート音を堅実に提供しながら、特に弦を引っ掻くように「ゴリッ!ゴリッ!」と鳴らして、そのエモーショナルなプレイに凄まじい熱気がこもっている。

そしてバンドの要のエルヴィンのドラム。たとえば10分だったら10分、20分だったら20分の演奏時間の中で常にアクセルを緩めない渾身の一打。ただパワフルなだけじゃなくてその強烈な音を、コルトレーンのアドリブに合わせて細かく変化させることも出来る、まるでリズムそのものに意思があるかのような生々しいドラミングです。

これらメンバーの音が、独特の荘厳で重厚な響きを持った曲の中で一体になって重なり合い、高温で溶け合い、楽曲、メロディ、リズム全部が激しく互いを刺激し合うアンサンブルになるんです。

・・・ふぅ、ちょっとアツくなって説明っぽくなり過ぎましたが、つまりは熱く、重く、切なく狂おしいのがこのバンドならではの音世界。

聴いてるうちに凄まじく揺さぶられます、でももっともっとガンガンに揺さぶってほしくて、コルトレーンを聴きたくなるんです。そして聴いているうちにコルトレーンの激烈な演奏には何か重要なメッセージが込められるんじゃないかといった具合に、体感と思考が更にガンガン揺さぶられます。





【パーソネル】
ジョン・コルトレーン(ts,ss)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

【収録曲】
1.アフロ・ブルー
2.アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー
3.ザ・プロミス
4.アラバマ
5.ユア・レディ


さぁ、一曲目の「アフロ・ブルー」から、このアルバムはそんなコルトレーン・カルテットの”揺さぶり”が全開です。

「アフロ・ブルー」は、大ヒットした「マイ・フェイヴァリット・シングス」と似た構造を持った、マイナー調のジャズ・ワルツ。

コルトレーンのマイナー展開は不思議ですよね、哀しげなメロディーなのにリズムとテンポが非常に力強く、まるで北アフリカとか中東とか東欧とかその辺の民族音楽を聴いてるかのようなトリップ感に溢れております。

90年代以降クラブDJのリミックスネタとしてよく取り上げられ、ダンスフロアで人気の定番になったエピソードを出すまでもなく、何というか人の心の「哀愁で踊りたい」という本能に火を点けるんですね。コルトレーンは。

そしてこのアルバムのもうひとつの聴きどころは2曲のバラード

「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」は、初期の名作といわれる『ソウルトレーン』で録音されて以来、コルトレーンがお気に入りとして色んなライヴで演奏してきた曲。

流れるような美しいメロディがすーっと耳に入ってくるスタンダード・ナンバーですが「エンディングでの長い無伴奏サックス・ソロ」が、コルトレーン演奏の醍醐味です。

ここでもラストで無伴奏に突入します、そして、そこからの展開が、もうめくるめくスケール・アウトとふと原メロディに戻る瞬間との波状攻撃で素晴らしいんです。

そしてもう一曲のバラードの『アラバマ』。

これはいわゆるバラードの、甘く愛を奏でる趣旨とはまるで違う、重く悲しく、静かな怒りを秘めた痛切なバラードです。

このアルバムが録音された年に、アラバマ州の黒人教会で、ミサの最中にダイナマイトが投げ込まれ、4人の女の子が犠牲になったという痛ましい事件が起こったんです。

この事件はアメリカ全土を深い悲しみと怒りに包みました、そして日頃から音楽で世界を平和にして、差別とか対立のない世界にしたいと真剣に考えていたコルトレーンにも大変なショックを与えました。

ただ、コルトレーンの場合はこういった痛ましい事件を受けて「あぁ悲しいね」だけでは収まらない、悲しみも怒りも絶望も、一曲のメロディとアドリブの中に全て込めて吹いています。

これはアタシなんかがどうこう言うより、聴いて頂いた方が早い。とにかくコルトレーンという人の、この曲に限らず音楽全般にどんなメッセージを込めていたんだろうかという部分が切実に沁みてきて皆さんに訴えかけると思います。

この日の客入りは少なかったらしく、拍手もまばらで歓声もほとんど聞こえないんですが(これがこのアルバム唯一の不満な点です)、当時のアメリカでクラブでの客入りって多分こんな感じが普通だったんだろうなと思うと切なくなってしまいますが、どこまでもアツく盛り上げる曲と、思考の奥深くに沈み込む曲と、全身全霊で吹き切るコルトレーン本当に凄いです。

この日の生演奏を間近で聴けたお客さんは、どれほどの衝撃を受けただろう、そしてどれほどの”考えるきっかけ”を感じただろうと思います。







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2017年07月31日

ジョン・コルトレーン クル・セ・ママ

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ジョン・コルトレーン/クル・セ・ママ
(Impulse!)


前回はコルトレーン、記念すべきImpulse!第一作目の『アフリカ/ブラス』をご紹介しましたが、皆様本日はアタシが思う「コルトレーン流のアフリカ」が、更にディープな領域に立ち入って見事炸裂した、うん、コルトレーンの作品の中でも一番”アフリカ”を感じさせるアルバム『クル・セ・ママ』をご紹介いたします。

はい、曲毎に録音の日付が違ったり、メンバーが入れ替わったりしておりますが、このアルバムの収録曲がレコーディングされたのはいずれも1965年です。

1965年って何?って言いますと、あのですね、コルトレーンがマッコイ、ギャリソン、エルヴィンと一緒にバンドを組んでから5年経ったということなんですよ。

その5年間でコルトレーンは「次、また次!」と、どんどん音楽的な変化を求めて、レコーディング毎にそれを何らかの形にしてきた。もうそのコルトレーンの”変化を求める気持ち”というのは凄まじいものです。

で、そういやオレは5年前にインパルスと契約した時に「アフリカ」って曲を吹き込んだ。でもまだオレはあの時点ではまだまだ一般的なジャズのやり方でしかアフリカを表現出来てなかったよな。あれからオレはアフリカ音楽も本気で勉強したし、思想も歴史も学んだし、カルテットのメンバーもあの頃と比べて腕を上げている。そうだ、もっぺんオレが思う”アフリカ”を曲にしてレコードに残したい。うん、だったらすぐにスタジオに入るぞ。

と、コルトレーンはまるで水泳で息継ぎをするように思考を巡らせてスタジオ入りしたことでありましょう。

コルトレーンが思いを巡らせて、コンセプトを更に煮詰めた”アフリカ”これを通常のカルテットで演奏すると、まだまだフツーのジャズになってしまう(や、あくまでコルトレーン基準の”普通”です)から、今回も助っ人が必要だ。

と、呼ばれたのが、アフリカン・パーカッション奏者で、当時ジャズ周辺ではアフリカンアメリカンの民俗活動家、詩人、または思想家として一部ミュージシャン達から尊敬されていた人なんだそうです。

ジェンベと呼ばれるアフリカではポピュラーな打楽器を叩きながら、アフリカの言葉と英語を織り交ぜたスピリチュアルな詩に節を付けて唄うそのスタイルを、コルトレーンはそのまま演奏の中心にして、どちらかといえば自分達カルテットはそこに混ぜてもらおうと、ルイスに作曲も依頼します。

これがタイトル曲の「クル・セ・ママ」。

レコーディングに当たっては、ルイスのパーカッション、エルヴィンのドラム、そしてこのセッションのために連れてきたフランク・バトラーのドラムスとパーカッションと3つの打楽器がリズムを強調。更にコルトレーンが個人的に気に入っていた若手サックス奏者のファラオ・サンダース(後に正式にグループに参加)のテナーと、カルテット初期の頃にヴィレッジ・ヴァンガードのライヴなどに招いて、バスクラやベースを吹いたり弾いたりしてもらい、民族っぽい雰囲気を醸し出すのに大貢献したドナルド・ギャレットも加えた8人編成で、この大作は演奏されております。

演奏の主導権を握るのは、完全にジュノ・ルイス。

彼のパーカッションが合図となって打楽器群のリズムが打ち鳴らされ、ベースがどんより響き、マッコイのピアノがまるでアフリカの竪琴のようにリフとも効果音とも言える美しい音を断片的に鳴らす。そしてコルトレーン、ファラオ、ギャレットが荘厳なテーマ・メロディーを合奏している中で、ルイスのアフリカ語の詩「クル・セ・ママ(母の讃歌)」が、静かに、そして徐々に熱を帯びながら語られて唄われる。

ファラオの”キュルキュルキュル!”という、ゴツいマシーンのエンジンブレーキみたいな独特のテナーの吹き鳴らしも、ギャレットの不穏に炸裂するバス・クラリネットも、これはもう完全に”ノれるジャズのソロ”じゃあないんです。

西洋音楽の調制や規律からは最初からアウトした感じの、もう完全に民族音楽のような、喩えれば人や動物の声に近いフレーズで、これが歌と呼応していて、本当に「あぁ、豊かな音楽だなぁ」と、何度聴いてもしみじみ思わせるんですね。

続いての「ヴィジル」は、うって変ってジャズマンとして、一人のテナー吹きとして、エルヴィンのドラムだけをバックに・・・というか、アドリブとアドリブの対等で激烈な一騎打ちで興奮させてくれます。

コルトレーンにとってエルヴィンは、かけがえのない”触発の素”でありました。

「バックでエルヴィンが叩いてくれたら、それだけで次々とアドリブが出てくるんだ」

と、誰彼構わずそう語り、エルヴィンを絶賛していたコルトレーンの気持ち、これ聴くとすごく分かります。バックがドラム(リズム)だけというのは、つまり他に和音やルート音を奏でる楽器がない分、自由にハチャメチャにやれる訳です。ここでのコルトレーン、フリー・ジャズとまではまだ行きませんが、凄まじく暴れています。エルヴィンも定型こそ崩してませんが、こんな自由なドラムったらないです。

そして「コルトレーンのスピリチュアル・バラードの極み」と、今や若い人達に愛されていて、カヴァーやリミックスなんかも多い「ウェルカム」。

これはカルテットでの演奏ですが、いわゆるジャズのバラード特有の、甘さとか、ムーディーな夜の雰囲気とかとは、何かこう全く別の世界ですね。

コルトレーンのテナーの音はふくよかで優しく、マッコイ以下バックの演奏はしっとりとまとまっています。けれどもその”まとまってる感”を何かが飛び越えて、もう精神世界と言うしかないところから音が鳴ってる。そんな曲です。



【パーソネル】

(@)
ジョン・コルトレーン(ts)
ファラオ・サンダース(ts)
ドナルド・ギャレット(b-cl,b)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)
フランク・バトラー(ds,perc)
ジュノ・ルイス(perc,vo)

(A)
ジョン・コルトレーン(ts)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

(B)
ジョン・コルトレーン(ts)
マッコイ・タイナー(p)
ジミー・ギャリソン(b)
エルヴィン・ジョーンズ(ds)

1.クル・セ・ママ
2.ヴィジル
3.ウェルカム

実はサウンズパル店頭で『大コルトレーン祭』をしていた時、このアルバムがぶっちぎりで売れたアルバムだったんです。

「これは面白い!」

「カッコイイ!」

と、試聴して買ってくれたのは、いずれも若い音楽好き。

特に

「ジャズはメインで聴く訳じゃないけど、ジャズも好きですねー、カッコ良ければ何でもOK」

という方々に、あぁコルトレーンの音楽ってこうやって聴き継がれていくんだなぁ・・・と、激しく感動したことを今もしっかりとアタシは覚えております。

コルトレーンの音楽は、もちろんジャズとしてカッコイイんだけど、ジャズファン以外の音楽好きを巻き込む”何か”を、常に発してるんですよね。その”何か”とは何か?

うん、アタシも実はいまだによくわかんないんで、コルトレーンを飽きずに「あぁいいなぁ」「かっこいいなぁ」と思いながら聴くことが出来てます。





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サウンズパル店主高良俊礼の個人ブログ
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posted by サウンズパル at 19:27| Comment(0) | 大コルトレーン祭 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする